身震いがした。
2019年12月。セレスボクシングスポーツジムの会長を務める小林昭司は、1週間後のIBF世界スーパーバンタム級暫定王座決定戦に出場する愛弟子の岩佐亮佑とともに冬のニューヨークに降り立った。底冷えの寒さを上回る高揚感が体の芯を火照らせているように感じていた。
<なんだか頼もしいな>
隣にいる岩佐を見て、心からそう思えた。海外での試合はこれで4度目(相手の体重超過で中止になった試合を含め)、もう慣れたものだ。岩佐は行きの飛行機で一切眠らず、現地時間に体内時計を合わせるやり方。体重もリミットまであと2㎏と順調な仕上がりで、ニューヨークに乗り込んできた。到着翌日、ニューヨークは大雪に見舞われた。
「前日にこっちに到着しておいて良かったな」
勝てば天国だが、負ければ何も残らないのがプロボクシングの厳しい世界。ちょっと強引でも吉兆の事象にしてしまうボクサーの性とも言うべきか。何だかツイてるな、いやいやツイてる。ジムの会長であり、岩佐のメイントレーナーを務める小林は自分にそう言い聞かせていた。

ラストチャンス――。
負けたら、もう引退の道しかない。
10カ月前、2人はロサンゼルスにいた。メキシコのセサール・フアレスと同王座の挑戦者決定戦に臨み、負傷判定勝利で挑戦権を手にした。フアレスの強打を封じ込めてタフネスに戦い、勝利を収めることができた。「これくらいはやるだろう」と思いながらも、実際に現実を目のあたりにすると感慨深いものがあった。
というのも、このわずか半年前に岩佐はIBF世界スーパーバンタム級王座から陥落していた。現役引退も視野に入れていたという。
引退の可能性があることを、小林は岩佐から直接聞いていない。岩佐の周辺から「彼が引退を考えているようです」と聞いていただけ。本人に確かめようともしなかった。小林も元世界チャンピオン。2度目の防衛に失敗したところも共通している。ただ、肉体にダメージが残っていないボクサーに対して、進退について介入したくはなかった。世界チャンピオンに対してはなおさら決断を尊重したいと考えていた。
同時に「岩佐はもっと強くなれる」とも感じていた。敗北で受けたのは、心のダメージだけ。この敗戦をバネにできれば、もっと強くなれるとの確信があった。
岩佐から現役続行の意思を受けたとき、もう一度世界チャンピオンにさせると小林は心に誓った。そんな折、挑戦者決定戦というオファーが舞い込み、岩佐は「やらせてください」と小林に頼み込んだという。
敗戦から再起する場合、格下の相手との対戦を挟んで勝ちグセをつけて再勝負に挑むというケースは少なくない。だが挑戦者決定戦のオファーが次、来るかどうかなんて分からない。むしろ世界タイトルに初挑戦するまでかなりの時間を要したことからも、オファーを流すことはできなかった。だからこそフアレスとの対戦にがっついてきた岩佐の反応を見て、世界チャンピオンに返り咲きたいという彼の強い意志を感じることができたのだった。
フアレス戦の〝財産〟が2人を落ち着かせていた。
アメリカで一度勝っているという実績に加え、フアレス戦でチームに加わってくれた岡辺大介、ルディ・エルナンデス両トレーナーらもいる。4月にはロサンゼルスに合宿に行かせてもいた。次の試合がアメリカになることは分かっていたし、岡部、ルディ氏との関係を深めるためにも、と小林は急きょ資金を工面して愛弟子だけを送り出した。西海岸と東海岸の違いはあれど、海外で調整するやり方を小林の期待どおり、身につけてくれていた。

ニューヨークに到着後、プロモーターからは現地で練習できるボクシングジムを用意されていた。だが彼らはホテルのスポーツジムで調整することを選択。移動することでコンディションを崩すリスクを冒したくはない。それも理由にあるが、やれることは日本ですべてやってきたという自負もあった。
小林は愛弟子の調整を見守っていく。調整も仕上げに入り、食事もほぼ取れないながらも肌ツヤも良く、疲れも取れているようだと感じた。
一方で小林は胃薬が手放せなくなっていた。
水曜日に対戦相手のマーロン・タパレスがニューヨークに入った。ランキングは1位の岩佐に対してタパレスは3位。フィリピン出身の元WBO世界バンタム級王者は27歳と脂が乗っており、力強い一発もある。油断ならない強敵のサウスポーだ。岩佐は過去3敗がいずれもサウスポーということもあって「岩佐にとって苦手なタイプで不利」とする見方も出ていた。
正規王者ダニエル・ローマン(アメリカ)のケガによって、「タパレスとの暫定王座決定戦もあるな」と小林の読みどおりにはなった。日本ではフィリピンからファイタータイプのボクサーをスパーリングパートナーに呼んで、打ち合いでも勝てるように仕上げてきた。
自信を持ってニューヨークにやってきた。だが夜、部屋に戻ってタパレスの試合の動画をチェックすると不安が頭をもたげてくる。
イテテテテ。
右フックと左アッパーはやっぱり怖いな。
胃薬を水で流し込むと、部屋でブツブツと言いながら、立ててきた作戦を何度も反すうしていた。シチュエーションに応じて、どんなアドバイスをしていけばいいかシミュレーションもした。
眠れない。いや眠くならない。
気がつけばもう一度、タパレスの映像を見る自分がいる。自分で試合をやるほうがよっぽど楽。弟子たちが試合をするたびに思う。彼らの人生がこの試合に懸かっているのだ。最高のパフォーマンスを引き出すために、自分が何をやらなければならないのかをずっと考えていた。
反すうと胃薬。
だが試合が近づいていくにつれて不安は逆に小さくなっていく。岩佐の落ち着きが、それを取り除いてくれていた。
12月7日、試合当日の朝を迎えた。ニューヨークの外の景色はひどく寒そうだ。でも不思議と思った以上に眠ることができた。清々しく、気持ちのいい朝だった。
2024年4月再掲載

SPOAL編集長
二宮寿朗
1972年愛媛県生まれ。1995年、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社し、文藝春秋社「Number」誌の契約編集者を経て独立。少年時代からスポーツ誌を読みあさり、遊びでもファミスタにどっぷりはまったクチ。いつもスポーツが生活の「豊かさ」につながっていたと感じる。スポーツライターは自分にとって天職。信条は「アスリートへのリスペクト」と「魂を込めて書く」。趣味はスポーツ好きの仲間と居酒屋で呑むこと。書き終えた後の一杯は、格別です!

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近藤俊哉
1974年東京都出身。1998年から文藝春秋写真部に所属。雑誌「Number」で様々なスポーツ撮影を経験し、2014年フリーランスに。現在はサッカーやボクシング撮影を中心に幅広く活動、Web等での映像制作も手がける。プライベートではベースギターを購入し練習の日々。映画と猫とお笑いが好き。日本雑誌写真記者会賞受賞、第54回JAA広告賞 雑誌広告賞入賞。
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