レフェリーは格安報酬 ほとんどボランティア
日本におけるボクシング審判員の報酬はいくらくらいなのだろう? JBC公式審判員の中村勝彦に聞いてみると1回の興行で1万2000円という答え。1試合ではない。1興行で何試合もジャッジやレフェリーをして1万2000円だ。その興行の中にタイトルマッチがあればレフェリーは2万円、ジャッジは1万5000円となる。
実は審判員の報酬は世界のどこに行っても低い。2015年にアメリカのラスベガスで行われたフロイド・メイウェザーとマニー・パッキャオによるメガファイトは、総売上げが4億ドル(約480億円)、両選手が手にしたファイトマネーは3億ドル(約360億円)を超えたと伝えられたが、このときレフェリーを務めたケニー・ベイレスの報酬は3万ドル(約360万円)程度だったという。
これはボクシングの審判員が歴史的に“名誉職”であり、大昔は医師や教師、弁護士ら町の名士がレフェリーを務めたことの名残だと想像される。それがいまの時代に合っているかといえば、当然ながら議論の余地はあるだろう。
「選手はプロ中のプロでレフェリーはセミプロみたいな人がやっている。それでいいのかという議論はあるでしょうね。いずれにしてもレフェリーのポジションをきちんと構築することは大事だと思います。ただ、野球やサッカーのように審判がプロの職業として確立されていたら、私はレフェリーにはなっていなかったし、なれなかったと思います」
たとえたいしたお金がもらえなくてもレフェリーになりたいという人はたくさんいる(だから報酬が低いのかもしれない)。中村もその一人。レフェリーの世界に足を踏み入れたのは2003年のことで、40歳を迎えようとしていた。
ここで本稿主人公のプロフィールを簡単に紹介したい。
中村は東京・渋谷区に店を構える魚屋と寿司屋の長男として育った。生まれた1965年(昭和40年)ごろは、中学を卒業して上京してきた住み込みの若い衆がたくさんいて、店は活気にあふれていた。
「当時のスターはファイティング原田さん。原田さんの試合がある日は若い人たちが朝からそわそわしてどうしようもなかったなんて、あとからお袋に聞いたことがあります。私は最初からボクシングに惹かれたわけではなく、具志堅さんのころから徐々にのめり込むようになりました」
世界タイトル連続13度防衛の金字塔を打ち立てた国民的スター、具志堅用高が世界チャンピオンだったのが1976年から80年にかけてのこと。中村も全国の小学生や中学生と同じように具志堅に夢中になった。
高校生でボクシングジムに入れず…26歳でジム通い
成長するにつれてボクシングへの思いは強くなった。そして高校1年生のあるとき、東京・渋谷にあるセンタースポーツというボクシングジムの重い扉を開ける。ところが…。
「勇気を振り絞って『ちょっと練習がしたいんですけど』と言ったら、対応してくれたのがなんだか滑舌の悪いパンチパーマの練習生。その人が『毎日練習しないと会長にかわいがってもらえないよ』って。その雰囲気にビビって帰ってきちゃったんですよ(笑)」
当時のボクシングジムに女性や子どもや高齢者なんていなかった。いるのは目つきの鋭い男たちばかり。普通の高校生が入り口でのまれてしまっても仕方あるまい。このときの体験は中村の心にのちのちまで引っかかることになった。
その引っかかりを解消するチャンスが訪れたのは26歳のときだった。学習院大学を卒業して大和銀行に就職し、ちょうど結婚をして家庭を持ったころの話である。社会人になっていた中村はいささかもビビることなく、目黒区内にあったバトルホーク風間ジムの練習生となった。
26歳ならまだプロ選手になれるし、アマチュアの試合にも出られる年齢だ。ただ、中村は目が悪く、銀行員という立場もあって試合に出ようとはしなかった。確かに銀行は目を青黒く腫らして出勤する社員に温かい職場とは思えない。
10年越しの思いで始めたボクシングは楽しくて仕方なく、若い練習生とスパーリングをしたり、マスボクシングをしたりしてこのスポーツにのめりこんでいった。ジムに通い始めたころ、20歳そこそこの練習生と出会う。名前を嶋田雄大といった。
「嶋田くんと話をしたら、まだアマで1戦か2戦しかやっていないのに『僕は世界チャンピオンになります』って堂々と言うんですよ。こんなやついるんだってビックリして。仲良くなって彼のアマチュアの試合でセコンドをしたこともありました。すごい男です。あれから努力して、世界チャンピオンにはなれませんでしたけど、それに近いところまでいったんですから」
嶋田はその後プロ入りし、02年に日本ライト級王者になった。12年までリングに上がり、世界タイトルマッチに2度挑戦したのだからたいしたものだ。彼のラストファイトで中村がジャッジを務めるという縁もあった。嶋田は現在、新潟県にある大翔ジムで会長を務めている。
中村は長くジムに通っているうちに何かもう少し深くボクシングに携わりたいと感じるようになっていた。嶋田の活躍も刺激になった。そんなとき、ボクシング雑誌でJBCがスタッフを募集しているという記事を見つける。中村はこれに応募してみようと決意する。
職種は審判、タイムキーパー、リングアナウンサーなど。中村が希望したのはリングアナウンサーだった。
2020年10月公開