授業をさぼって体育館で練習した学生時代
昨シーズン、現役最年長の49歳で引退したB1レバンガ北海道の折茂武彦は輝かしいバスケットキャリアを誇っている。埼玉県の強豪、埼玉栄高で名をはせ、日大に進んでインカレ優勝に貢献。トヨタ自動車では3Pシュートの名手として活躍し、日本代表の要としてアジア大会や世界選手権に出場したことはよく知られている。
2020-21シーズンの現役最年長、42歳の宮田は折茂のようなスター街道とは無縁の選手だった。
高校は東京の都立国立高で、バスケットボールの強豪校ではない。普通の公立校だから、1日何時間も練習時間があるわけではないし、長期の合宿や、強豪校と対戦するための長距離遠征もない。そうした環境の中で、宮田のバスケットボールにかける情熱だけは〝超高校級〟だったと言えるだろう。
まず、入学すると学校の校則を読んで「進級するためには授業の3分の2に出席しなければならない」という項目に目をつけた。
なるほど、授業には3分の2出席すれば進級できるわけだ―。
これが宮田の理解である。そこで授業は3分の2だけ出席することにし、残りの3分の1の時間をバスケットボールの練習にあてることにした。
体育館は体育の授業で必ず使っているわけではない。そこで体育館があいていれば、みんなが授業を受けている時間に一人で思い切り練習をするのだ。
もちろん善良な高校生のあるまじき姿ではない。ドンドンと音を出してボールをついていると、ガラリと教師が入ってきて、あきれ顔で「おい、宮田な~」というシーンは何度もあった。それでも「へへへ、すいません」と笑いながらその場は引き、また何食わぬ顔で練習した。
高校では東京でベスト8、関東大会出場という結果を残したから都立高としては上出来である。とはいえ全国トップレベルから見れば、「ふ~ん」という程度の成績だろう。宮田個人としても「知る人ぞ知る金のタマゴ」というわけでもなかった。
高校の部活動が終わり。宮田はこの先もバスケットボールを続けたいと考えた。ところが調べてみると、大学で本格的にプレーすることはそう簡単でないことを知る。
「当時の関東大学リーグの1部、2部の学校は、基本的に推薦で入学した選手でなければチームに入るのは難しかったんです。そこで話しを聞いてみると、早稲田か慶応なら浪人して一般受験で入った学生にもチャンスがあると。そこで早稲田を狙うことにしました」
とはいえ高校時代は、完全にバスケに専念していたので1分も勉強をしたことがなく、本人曰く、学年で1、2を争う留年候補。夏の時点で現役合格はあきらめ、バスケットは週1回2時間と決めて、勉強に打ち込むことにした。
高校教師に「絶対採点ミス」と言われた大学合格
浪人時代は1日15時間勉強して、理科は物理を捨てて化学だけを勉強した。しかも「用語とかを最初に覚えても忘れてしまいそう」という理由から、化学は最後の2ヶ月に集中して勉強するというる極端な方法を採用した。その結果、1年後に早稲田の理工学部に合格。高校の先生からは「絶対に採点ミスだ。そんなやり方で受かるわけがない」と〝おほめの言葉〟をいただいた。
その早稲田で宮田はまたしても徹底的にバスケに打ち込んだ。ほかの部員からは「体育館に行けば絶対に宮田がいる」と言われるほどだった。しかし、関東大学リーグ2部の早稲田で、宮田が主力選手になることはなかった。
「2部の大学でただの控えですからね。1試合あたり平均10分も出てなかったと思いますよ。だから当然、実業団から声がかかるなんてこともありませんでした」
宮田は大学でもバスケ漬けの生活がたたり、2年も留年してしまう。この間は東京エクセレンスの前進となるクラブチーム「エクセレンス」の立ち上げに加わってプレー。2年遅れで卒業したあとは、大手電機メーカーのNECに就職し、引き続きクラブチームの一員としてプレーを続けた。
これで落ち着いて社業に専念し、あくまで余暇としてのバスケを楽しむかと思いきや、バスケへの情熱が抑えきれないほど高まってしまう。アメリカの独立リーグなら、お金を払って試験を受けて、受かればチームに入れる、という話を聞きつけると、いても立ってもいられずアメリカに旅立ってしまった。
最初、会社の上司は「もう少し考えてみろ」と休暇扱いにしてくれたものの、独立リーグABAのオンタリオ・ウォリアーズというチームでのプレーが決定。会社を辞めてここで1シーズンプレーしたあと、当時の日本リーグ、JBLのトヨタ自動車アルバルクから声がかかり、日本最高峰のリーグでプレーすることが叶ったのだ。
「アルバルクの1年目はシーズンを通してほとんど試合に出ていません。デビュー戦も最後の方に出て、緊張してドリブルしたらボールを蹴っちゃいました。めちゃめちゃ汗かきましたね。結局、アルバルクでもあまり試合には出られませんでした」
アルバルクでは5シーズンプレーするものの、早稲田のときと同じように扱いは控え選手のまま。6シーズン目、宮田は「キャプテンをやらせてください」と直訴し、チームから了解も得ていた。ところがその矢先に〝戦力外通告〟を言い渡されてしまったのである。
「やる気満々だったんですけど、新しいヘッドコーチがきて新しい選手を入れることになった。そのとき切れるのが僕しかいなかったんです。選手じゃないけど、メンターという立場でチームに関わっていい、と言われたんですけど…5分くらい考えてお断りしましました。若い選手だったら練習生のような立場もいいかもしれないですけど、自分の場合はもう32歳でしたから」
並の選手なら間違いなくここで現役生活は終わりだ。ところが宮田のしぶとすぎるバスケットボール人生はまだ折り返し地点を迎えたにすぎなかった。
2020年8月掲載