アメリカ・ロサンゼルスで勝利したWBC世界フライ級王者アラクラン・トーレスとのリマッチ。今度は世界タイトルを懸けての一戦になる。16歳でデビューしてから6年、22歳でようやく実現にこぎつけた。
ヤル気をみなぎらせる一方で、心には何となく不安が広がっていた。ロス行きのときのように心が弾まないのだ。
「メキシコはトーレスの地元だし、周りからも『判定じゃ絶対勝てないぞ』『メキシコは高地にあるから息切れするぞ』とかそんなマイナスなことばかり聞いていた。だから心のどっかで、ちょっと嫌だなって思っていたんだよ」
1969年11月、花形進はメキシコに渡る。試合の場所はグアダラハラの闘牛場だが、首都メキシコシティで調整した。ロードワークをしていても確かにすぐに喉が渇く感じがあった。
だがちょっとした驚きがあった。町を歩いているとサインをねだられたのだ。
「あれにはびっくりしたね、1人にサインしたら、後からどんどん人が来てさ。歩きながらサインしちゃったよ。どうもロスでの試合がこっちでも放送されていて、トーレスに勝ったボクサーだっていう認識をみんな持ってくれていたみたい」
メキシコはWBCの本部があり、ボクシング人気も当然高い。トーレスと花形のタイトルマッチの舞台となるグアダラハラのモスメンタル闘牛場には2万人の観客が集まった。
試合は一進一退の攻防が続いた。鋭いパンチから〝サソリ〟のニックネームを持つトーレスは前回より随分と気合いが入っていた。
当時の世界タイトルマッチは15回戦。「西部の真珠」と称されるグアダラハラはメキシコシティよりも低地にあり、息も苦しくはなかった。現地のファンからはサインをねだられていたため、敵地とはいえ殺伐とした雰囲気もあまり感じなかったという。
中盤にはワンツーを浴びせ、何とか勝機を見いだそうとしていた。しかし9回に強烈な右フックを浴びて一時失速。終盤は持ち前の踏ん張りを見せながらも0-3判定に終わった。世界タイトルには届かなかった。
「採点はちょっとひどいと感じたね。2、3ポイントくらいの負けだと思っていたら、ほとんどトーレスのほうだったから。敵地で判定じゃ勝てないっていうのは本当に実感させられたよ。ただね、大事なのはハートって言ったでしょ。最初にちょっと嫌だなと思っていた時点で、もう気持ちで負けだったんだよ」
73歳になった花形は50年以上前のことを思い出しながら、そう言って拳で胸をポンポンと軽く叩いた。
気持ちを切り替えた花形は帰国後、日本フライ級タイトルの防衛を含めて1971年1月までに5連勝をマークする。2度目のチャンスは突然やってくる。
タイのチャチャイ・チオノイを破ってWBC新王者となっていたエルビト・サラバリア(フィリピン)の初防衛戦の相手に指名されたのだ。それも試合の3週間前。準備期間は短いがやるしかない。そしてまたしてもアウェイ。メキシコの次はフィリピンである。
ケソンシティのアラネタコロシアムには3万5000人の観衆が集まっていた。メキシコでの経験もあったため、最終調整もうまくいった。
しかしながらフライ級としては長身でリーチも長いサラバリアをなかなか攻略できず、逆にパンチを食らってしまう。終盤に追い上げを見せたものの、大差の判定負けで涙をのんだ。
これで2試合続けての世界挑戦失敗。ここでも花形はショックを引きずらないで次に進もうとする。日本タイトルを守って次の挑戦を待っていると、今度はWBA王者になって2度防衛していた大場政夫との対戦が決定した。1972年3月4日、日大講堂で行なわれることになった。花形は3年半前に一度勝っており、大場にとってはリベンジマッチとなる。
日本人同士による世界戦は沼田義明―小林弘の一戦以来となり、異様な盛り上がりを見せていた。大場との挑発合戦も話題になり、新聞にも大きく取り上げられた。
花形はこんなエピソードを教えてくれた。
「大場くんは一度、俺に負けているから結構、メディアを通じていろいろと言ってくるわけよ(笑)。別にそれでどう思うとかもなかったよ。実際戦ってみて〝強いな〟と思ったし、あのときはキャリアの差で勝ったところもあったから。ウチの河合(哲朗)会長が『試合を盛り上げるために、お前も何か言えよ』というのもあって俺もいろいろと言ったね。もちろん憎しみなんかないしね」
世界への3度目の正直。
メキシコでもフィリピンでもなく、今度は日本で戦うことができる。だが思わぬアクシデントが待っていた。試合が間近に迫ってきた折、風邪をひいてしまったのだ。
「2月末だったかな。このときは調整もあるからって横浜のホテルに泊まることになったんだけど、空調が壊れていたのか部屋が暖かくならなくて、毛布一枚じゃ寒くて仕方がなかった。次の日から熱が出てきて、1日だけ練習を休んで病院に行って点滴してもらった。そうしたら体重がボンと増えたわけよ。そりゃそうだよな。減量で最後に絞り切ろうとしているときに水分入れちゃったんだから」
これはヤバい。
風邪の症状が収まらないなかで翌日から練習を再開して体重を落とそうとした。「ヒーターをガンガンにした」ジムで厚着のまま汗を出した。メディアの前では平静を装い、両者が顔をそろえる試合2日前の会見でも「調子はいい」と言い切っている。
前日計量の朝は0・7㎏オーバー。横浜から東京に移動する車のなかでも毛布をかぶった。それでも1回目の計量はフライ級のリミットよりも0・4㎏超えていた。すぐさま後楽園のサウナに向かって無理やり汗を出して、何とか計量をパスしたのだった。
体温は38度まで上がっていた。横浜に帰る気力はなく、会場となる日大講堂の近くに会長の知人の家があった。病院で点滴してから急きょそこで寝泊りさせてもらうことになった。
「ホテルに荷物を全部置いていたから取ってきてもらって、その家でご飯を食べさせてもらった。このときばかりはボクサーってつらい仕事だなって思ったね。どうしてここまでしか戦わなきゃいけないんだって」
ギリギリの精神状態を保ちつつ、体力の回復を願った。しっかり休めたことによって試合当日、何とかリングに上がれる状態にはなった。
ハートで負けちゃいけない――。
試合モードに気持ちを切り替えた花形は自分にそう言い聞かせていた。
2020年12月公開