ボートの鉄人、武田大作には心強い味方がいる。
家族は妻と大学生の長男、次男、長女、中学生の次女。今回、東京五輪を目指すにあたって、家族からも期待されていなかったという。
「奥さんからも『体、壊さないでよ』って、あんまり無理しないでという感じでしたね。でも僕は期待されていないほうが燃えるタイプなので(笑)。まあ、こうやって長く楽しくボートをやれているのも家族のおかげだと思っています」
ボートに没頭するあまり、家族のことを妻任せにしてしまったところは多い。収入も競技につぎ込むのだから、「いつボートをやめるか」が夫婦間では常に話し合いが持たれたという。
昔、世界チャンピオンになったらボートをやめると妻に伝えた。2000年の世界ボート選手権で4人乗りの軽量級クォドルプルで優勝を果たしたが、ザグレブからの国際電話で「もうちょっとやらせてほしい」と頼んだ。次に、30歳になったらやめる。次に……。結局、なし崩し的に競技を続けることができているのも、何よりも理解があったから。妻からすればもはやあきらめに近い心境なのかもしれないが。
しかしその妻の何気ない一言に、ことあるごとに救われてきた。
彼の競技生活で大きな試練となったのが、2012年ロンドン五輪の出場権をめぐる戦いであった。
五輪の軽量級ダブルスカルは、シングルスカルの上位成績者2人が選ばれてペアを組む方式を日本は採用している。武田はアジア予選の代表選考会で2位に入りながらも選考要綱にないルールが突如として採用され3位に順位を落とした。補欠を意味する「補漕」にとどまったために日本スポーツ仲裁機構(JSAA)に異議を申し立てた。それが認められたことで、内定を取り消されたペアとのマッチレースが実施されることになった(武田のパートナーは、選考会で1位になりながら4位に落とされた浦和重)。決定からレースまで準備期間が少なく、パートナーのケガもあって思うように調整が進まなかった。
ポジティブな思考の持ち主である武田もさすがに追い詰められていたという。異議申し立てまでやってようやく認められた権利なのに、ここで負けてしまったら――。
愛媛にいる妻に連絡して思わず不安を口にしてしまうと、携帯電話の向こうから声がピシャリと飛んできた。
「これで負けるようだったら、それはあなたの心が弱い」
目の覚める思いだった。
そうだよ、心を強く持てよ。不安を覚える前に、きちんとやるべきことをやっておこうよ。自分にそう言い聞かせたことで、ポジティブな自分を取り戻せた。その結果、マッチレースを制し、続くアジア予選も1位で突破してロンドンへの切符をもぎ取ったのだった。
「普段の妻はボートのことなんて一切何も言わないし、こっちは好きにやっていますから。でも何かあったときのあの人の言葉って結構、耳に残るんですよね」
妻も子どもたちも何だかんだと言って、応援してくれている。それは農業に従事する両親もそうだ。
尊敬する父は80歳になったが、今も畑でバリバリ働いているという。
愛媛で同じように農業をしている同級生に、しみじみとこう言われたという。
「お前の親父は凄いよ。あの年で、あそこまでやるって若いよな」
仕事の量自体は減っているものの、町でも有名な親父さん。武田の職人気質は父の影響が多分にあると言っていい。
父の何気ない言葉も、何かと耳に残っている。
「仕事は40代になってから」
40代なかばともなると、周りから「衰えたのは年齢のせい」とよく言われる。無論、年齢を重ねてきて衰えてくる部分は少なくない。ただ何でもかんでも年齢のせいにするつもりもない。
「父は農業をやるうえで40代のころが体も気力も一番充実していたと言っています。僕も実際そう思う。興味あるものに対していろいろなものが分かってくるし、メンタル的にもいい大人なので落ち着くところってあるじゃないですか。周りの声を聞いて『俺も年を取ったな』じゃなくて、今は素直に充実しているなって感じることができればそれでいい」
東京五輪のチャレンジにひと区切りがついた今、妻も両親も武田がボートをやめるとは思っていない。このまま生涯スポーツとして取り組んでいくことを、家族は分かっている。
武田の次なる目標は、全日本選手権に出て勝つこと。
これまで幾度も勝ってきた大会ではあるものの、40代後半になってもやり方次第では「やれないことはない」と考えている。求道者ゆえの目標設定ではあるものの、もう1つ大きな大会で優勝するところを家族に見せたいという思いも強い。
「実際、やめようと思えるタイミングもあるにはあったんです。(17年の)地元の愛媛国体で両親や家族の目の前で優勝して『良かったね』と言われて、やめるっていうシナリオも頭のなかではちょっとあって。しかし左足をケガして、雑菌が入って炎症を起こしてしまったこともあって勝てなかった。やっぱり東京五輪を狙おうと思えたし、今こうやって現役を続けているのも(やめる)タイミングが見つからなかったというのもあるかもしれないですね」
武田は豪快に笑ってみせる。
中年の星。
そう言ってくれたのは、妻だった。深く考えないで言ってくれたのかもしれないが、勇気づけられている。
ボートを極めたいという気持ちが萎むことがない。
ピリオドがどこにあるのかなんて分からない。
でもそれでいい。
ボートの鉄人がピリオドを探すことなく、競技に打ち込む姿勢はベテランのアスリートのみならず、40代働き盛りの人々に元気を与えてくれる。
武田大作が滑らせるボートは美しく、力強い。
彼が刻んできた人生の航跡と、それは同じように――。
ボートを極めろ! ~武田大作挑戦記~ 終
2020年4月掲載