花形ジムから足が遠のいても、ボクシングから足が遠ざかったわけではなかった。南健司はむしろボクシング愛を強めていた。
日本人ボクサーが出場する世界タイトルマッチがあるたびにワープロで予想記事を書いて印刷し、友人や花形ジムに配るほどの筋金入りだ。独自の戦力分析や友人の予想なども載せてびっしり書いた。〝自分でボクシングをする〟から〝ボクシングに携わる〟というフェーズに変わる転換期でもあった。将来の目標はボクシング専門誌の記者になることだった。
ある日、花形進会長から一枚のチケットが送られてきた。
1993年11月、ジムでスパー相手を務めたこともある岡田明広のA級賞金トーナメント決勝の招待チケットだった。世界タイトルマッチ予想の記事や年賀状を送っていたので、花形からのちょっとしたプレゼントだった。
翌年1月には岡田が日本フライ級王座を奪取する試合も後楽園ホールで見届けている。
当時大学4年生。バブルが弾けた就職氷河期のころで、ボクシング専門誌の社員募集もなく、何とか自動車メーカーへの就職が決まった。夢と現実の狭間に身を置くなか、名勝負とも評されたこの試合を直に自分の目で見て、胸が熱くなった。
どうしてもサンドバックが叩きたくなった。どうしてもボクシングの練習がしたくなった。就職を前にして再びジムで練習を始めていく。プロライセンスも失効しており、体づくりの程度ではあるが。
就職してからは練習をやったりやらなかったりの繰り返しだったが、ジムには顔を出すようにした。というのも花形会長から「南が書いてきた分析記事。あれを花形ジムのバージョンでやってくれよ」とお願いされたからだ。ジム生が試合に出るたびに、不定期で記事を書くようになる。分析するには練習から見ておかなければならないし、取材もしておいたほうがいい。それはいつしか「花形月報」として定着していく。ジムに貼りだすとともに無料の配布物としてジムに置いた。1994年から2015年まで、何と157号も続いていくことになる。
花形ジムの名物でもあった「花形月報」。写真は南健司さん提供
「花形月報」がボクシング関係者との交流を深めていくことにもなる。1995年からはボクシング専門誌の名物企画「ガゼット座談会」に出席する機会を得る。日本初の女性ボクシングライターとして知られる松永喜久、ボクシング評論家の郡司信夫、元世界王者で大橋ジム会長の大橋秀行らそうそうたるメンバーのなかに「花形ジム会報作成者」として名を連ねたのである。
「月報を松永さんにも届けていたら、〝キミ、そんなにボクシングが好きなら座談会に来なさい〟と誘われまして。松永さんにはいろんな方を紹介していただきました。今もお孫さんと交流を持っていますが、松永さんには感謝の言葉しかありません」
自動車メーカーでバリバリと働く一方で、社業から離れればボクシングに携わる日々。
「ガゼット座談会」メンバーの何人かでアメリカに渡って、ボクシング殿堂入りパーティーに出席したこともある。日本のみならず世界のボクシングに対する造詣もかなり深くなっていた。
ジム生のこともよく理解しているため、セコンドライセンスを取得。そして1998年からはマネージャーライセンスに切り替えて、マネージャー業をかじるようになる。
花形ジムは事務回りなど細かいもすべて花形会長がやっていたため、専門のマネージャーを置いていなかった。人脈を広げていた南の存在は、まさにマネージャーに打ってつけだった。
花形ジムがちょうど勢いに乗っていく時期と重なる。
南と同い年でジムのエース的存在だった星野敬太郎が2000年12月にパシフィコ横浜でWBA世界ミニマム級王者ガンボア小泉(フィリピン)に挑戦することが決定した。
テレビ東京での生中継も決まり、世界タイトルマッチとなれば公開スパーや調印式など試合に向けた行事もたくさんある。マネージャーとしてこういった業務もテキパキとこなしていかなければならなかった。
星野は3-0判定で勝利して花形ジム創設初の世界チャンピオン、そして日本初の師弟チャンピオン誕生となる。星野は初防衛戦に失敗したものの、王座決定戦で再びガンボア小泉に勝利して返り咲く。裏方の業務は、大変ながらも「楽しかった」と振り返る。
「いろいろと決めることがあるので、たとえばテレビ局のプロデューサーが会長に言いにくいことを僕に相談してくるとか、まあ、連絡役みたいなところもありました。ただ僕も駆け出しのマネージャーなのに、星野の入場はどうやってやるのかとか問い合わせてみたりして、ちょっと生意気だったかもしれませんけど」
対戦相手のことで世界的なプロモーターである帝拳ジムの本田明彦会長ともやり取りをするようになる。南自身も世界が広がっていく感覚があった。
「星野の世界戦を手伝うことで、普段ならできない経験をさせてもらいました。彼には試合のたびに感謝の言葉を伝えられましたけど、僕も同じ思いでした」
星野敬太郎の世界タイトルマッチは計4度。南マネージャーはスケジュール調整などテキパキと細かい業務をこなしていた。写真は花形ジム提供
プライベートでは2003年に結婚。夫人とは星野が呼び掛けた食事会で知り合っている。公私にわたって同い年の星野の存在が、南の人生に深く関与してきたことは言うまでもない。
マネージャー業もだいぶ板についてきた。
星野のジムの後輩である木村章司は日本スーパーバンタム級王者となり、世界タイトルに2度挑んだ。同じく菊井徹平は日本スーパーフライ級王者となり、彼も世界タイトルに挑んだ。結果的に世界には届かなかったものの、アットホームなジムらしく裏方も一体となって彼らを支えていた。南もボクシングジムのマネージャーという仕事に、やり甲斐を感じているようになっていた。
タイトル写真は花形ジム提供
2021年1月公開