料理は前もっての準備が何よりも大切になる。
海外の環境であれば、なおさらだ。
ワールドカップも、もう慣れたもの。ブラジルでも専属シェフ、西芳照に抜かりはなかった。
2014年ブラジルワールドカップ。アルベルト・ザッケローニ監督率いる日本代表チームはベースキャンプ地をサンパウロ郊外イトゥにある「スパ・スポーツ・リゾート」に置いた。食事会場は選手たちがリラックスして料理を楽しめるよう、ガラス張りで見晴らしのいい場所に設置された。調理場には日本語の分かるスタッフを、集めてくれていた。というのも前年、ブラジルで開催されたコンフェデレーションズカップの遠征では食材の英単語がまったく通用しなかった反省があったからだ。
「エッグ」が伝わらなかったため、ポルトガル語を知らない西はニワトリの鳴き声やボディランゲージで伝えたとか。サンパウロ近郊は日系人も多い。作業の効率を考えても日本語が分かってくれたほうがやりやすい。
食材の準備で言えば、魚の仕入れがカギだった。
ブラジルは肉、野菜、果物などどれもおいしく、アメリカ産の日本米も売っている。サンパウロに日本の食材を調達できるスーパーマーケットもあった。そのため南アフリカのときのように納豆など〝ご飯のお供〟を大量に持ち込む必要もなかった。ただ、魚を持ち込めないことは困った。
コンフェデレーションズカップの際はブラジルでポピュラーな川魚であるティラピアをフライ料理にしたものの、不人気だったという。
「コンフェデでは魚を現地で手配しましたが、試合前日に食べていただく蒲焼き用のウナギや疲労回復に必要な栄養素を含んでいる青魚がどうしても手に入らなかったんです。川魚が中心でどうしても欲しい魚の調達が難しい。アナゴを何とか手に入れて蒲焼きにして食べてもらいましたけど、やっぱりウナギを食べてもらいたいと思いました」
魚は早めに仕入れなきゃいけない。
西は欲しい魚のリストを作成して、ウナギをはじめ西京焼き用の銀ムツ、銀ダラ、そしてサバなどの青魚も入手することができた。
毎日の食事で心掛けることは決まっている。肉、野菜、魚とバランス良く出して安心して栄養のあるものをしっかり食べてもらう、飽きないように同じ調理法、同じ味を避けて、日々メニューを変える。
ここまでなら、どのシェフも変わらないのかもしれない。
西が選手の支持を集めるのは、たっぷりの愛情と、たっぷりの遊び心だ。イトゥで最初のオフに出したメニューは、選手から驚きの声を集めた。
用意したのは何とラーメン、チャーハン、餃子の〝中華セット〟。まさかブラジルで食すことができるとは彼らも思わなかったようだ。
西は言う。
「最初はラーメンだけ出そうと思ったんですけど、どうせならセットにしちゃえ、と(笑)。みなさん喜んでくれたと思うし、餃子が人気ありましたね」
たまに飛び出すサプライズ料理。冷やしとろろうどんとかっぱ巻きの〝和セット〟もかなり評判が良かったという。
しかし、ブラジルでの一番人気は西にとっても「意外なもの」だった。
それは、パンケーキ。
ブラジルに乗り込む前、事前合宿地のアメリカ・クリアウォーターのホテルでパティシエがつくったパンケーキを選手がおいしそうに食べているのを見て、わざわざレシピを教えてもらっていたのだ。
選手の喜ぶ顔が見たい、その一心。
「確かにバターがいっぱい入っていて、僕もおいしいなって思ったんです。イトゥでもブラジル人のシェフがつくってくれたんですけど、みんなアメリカで食べたイメージが強いのか、あんまり食べない。そこでもらっていたレシピどおりにやってもらったら、またみんな食べるようになりました。と言いますか、飛ぶようになくなっていきました(笑)。
ほかに人気だったのは、ポンデケージョですかね。ブラジルで一般的なチーズ入りのパン。冷めると硬くなってしまうのでベーキングパウダーを入れてみたら、冷めても十分おいしく食べられるようになりました。選手のみなさんも食事を済ませて部屋に戻る際、おやつ代わりとして持っていきました」
ひと工夫しておいしく食べることができるように。西の愛情は、選手にも十分に伝わっていた。
だが、ザックジャパンは結果を出せなかった。1勝もできず、グループリーグ敗退に終わってしまう。
西はグループリーグ第3戦、クイアバで行なわれたコロンビア戦をほかのスタッフとともに観戦した。選手たちの頑張りを目に焼きつけようとしていた。
「決勝トーナメントに進めなかったことは、私も残念な気持ちでいっぱいでした。食材は準決勝分まで準備していたし、試合前日に食べる蒲焼き用のウナギも大量に仕入れてありましたから。チームは高い目標を掲げていましたし、食事、栄養面からちょっとでもその後押しができればいいなとは思っていたんですが……」
実は日本を発つ前、今回のブラジルワールドカップを最後に代表専属シェフの引退を考えていた。1年前のコンフェデレーションズカップで感じたことがあった。高温多湿の都市に入った際、40度近いホテルの厨房で調理をしなければならず、なかなかその疲労が抜けなかったのだ。
海外遠征に帯同してこの業務をこなしていくには相当な体力が求められる。
「若いときは、疲れなんて何でもなかったんですけどね。チームに迷惑が掛かることだけは絶対に避けなきゃいけないですから」
2011年の東日本大震災で被災した西には、サッカーファミリーから多くの激励の声が届いた。少しでも恩返しをしていくには与えられた仕事を、精いっぱいまっとうすることしかなかった。これで恩を返せたなんて思ってはいない。ただ50歳を過ぎて、体に無理が利かなくなっていたのは事実だった。
だが、帰国後の西は考えを変えることになる。
日本協会や選手たちから「続けてほしい」という要望があったと聞く。日本サッカーのためにというその思いが体力に対する不安を大きく上回ったのだった。
2020年5月公開