2017年8月15日、京都、WBC世界バンタム級王座13度目のタイトルマッチ。無敗の強打者、22歳のルイス・ネリの挑戦を退ければ、具志堅用高氏の日本人世界チャンピオン歴代最多防衛記録に並ぶ。
だが結果は4回TKO負け。暴風雨のように拳を振り回してくるネリのラッシュにバランスを崩し、守勢から抜け出せなかったことで大和心トレーナーがタオルを持ってリングに飛び込んできた。
赤コーナーに戻ってイスに腰を落とすと、呆然とした表情でその目は宙を見つめていた。ふと我に戻ると、涙があふれ出た。
新王者ネリがドーピング疑惑で世間をにぎわすことになるのはもう少し先の話。控え室でも、会見中も、ホテルに戻っても、とめどなく涙がこぼれ落ちた。
外に出てラーメンを口にする気は起らなかった。スタッフに頼んで、テイクアウトのハンバーガーをお願いした。
戦い終えて、お腹は空いている。しかし食欲はない。ハンバーガーがこれほど苦い味がするとは思わなかった。
「あんなにおいしくないと感じたハンバーガーは初めてでしたね。お腹は減っていたんですけど……。無理やり、口に押し込んだような感じでしたから」
ハンバーガーをテーブルに置いては、涙をぬぐった。一晩中泣いた。ずっと傍らにいてくれたのが、妻の沙也乃さんだった。
一つ食べ切るまでに、どれほど時間が掛かったか。長い、長い夜であった。
涙の理由――。
「お客さんがあれだけ来てくれているわけじゃないですか。期待に応えられない申し訳ない気持ちがいっぱいで……。それと、これで終わるぐらいなら、もう少し力を出し切ってという気持ちもありました。そういう2つの意味での涙やったかなって。
応援してくれる人がいるから正直、闘える。もし〝そんなん嘘やろ〟という人がいたら、俺はこう言いますよ。〝俺以上に応援されたことがないから分からんだけや〟と。これだけ応援してくる人たちを喜ばせたい。そう思って、やってきています。だからこそみんなに申し訳なかったなって」
悔しさと申し訳なさ。
繰り返し襲う、その感情が体内の水分をすべて涙に変えた。
実は納得できる勝ち方で1位挑戦者のネリを退けることができたら、引退を考えていた。大和心トレーナーにも、沙也乃さんにも事前に伝えていた。
強い相手に対して、完璧な内容で勝つ。それこそが彼の考える、ボクサー山中慎介の終着点だった。しかしそれは、まぼろしの計画に終わった。
防衛戦の後は地元の滋賀に凱旋にはじまり、後援会への挨拶回りや祝勝会、テレビ出演などスケジュールがすぐに押さえられるが、一転して静かな日が待っていた。
試合翌日は京都に残ったものの、大文字の送り火を見ることなく家族で過ごした。東京に戻っても同じ。空いたスケジュールは引きずるショックと戦う時間ともなった。そして彼は、復帰を、いやネリとのリマッチに向けて動き出すことになる。
7カ月後の再戦。
ドーピング騒動の次に待っていたのは、前代未聞と言えるネリの大幅な契約ウエイトオーバーだった。不利な条件を承知でリングに上がり、結果的には4度倒された。
試合後、控え室の椅子に座ってメディアに応対した山中はうつむくことなく、顔を上げた。その表情は無念というよりも、どこか清々しくも映った。4回TKO負けに終わった昨年8月のように、ファンへの申し訳なさと悔しさで泣きじゃくったあの夜とは違っていた。
「体重関係なく相手より弱かったというだけです。2ラウンドという早い結果で終わってしまいましたけど、現役を続行してこの試合まで1日1日、目的をもって練習して考えることができました。それだけで本当に現役を続行してよかったなと思っています」
心からの言葉であった。
試合後、ホテルに戻ってから沙也乃さんと顔を見合わせた。
お腹が空いていた。
ハンバーガーではなく、現役ラストの締めはやっぱりラーメンで。「何となくそこにしようか」という感じで、神楽坂にあるラーメン店の扉を開けた。
負けたとはいえ、気持ちはスッキリしていた。
鼻をくすぐる湯気のおいしそうなにおいに、偉大なる敗者の顔がちょっと緩んでいた。
それはリングで1対1の殴り合いをする男から、家族思いの優しいパパに戻る儀式でもあった。心配していた妻も安堵した。
「このスープええな。胃に染みわたるわ」
伝説のチャンピオンがボソッとつぶやく。妻も優しくうなずく。
2人の時間が流れているようで、止まっている。
試合が終わるたびに一緒に食べた、ラーメンの味。
試合内容次第で、うまいか、そうじゃないかが変わってくる。
だけど「うまい」と感じることができた。
山中慎介とボクシングとラーメンと。
ボクシング人生をやり切ったからこそ、胃に染みる。
ボクシングに懸けてきたからこそ、心に染みる――。