バスケの家庭教師がいたっていいじゃないか!
きっかけは単純だった。家庭教師をして学費を稼ごうとしたのだ。
中学、高校とバスケットボール部に所属していた鈴木は大学進学にあたり教員になろうと考えた。「学校の先生になりたい!」という多くの学生がそうであるように、鈴木も中学時代に出会ったバスケットボール部の顧問、稲葉一行氏に強い影響を受けた。
大きな志を抱き、千葉大に進学して日高哲朗教授に師事した。日高はバスケットボールの指導では名の知れた存在であり、鈴木は恩師の薫陶をたっぷりと受けることになる。やがてもう一歩踏み込み、「指導者を育てる側にまわりたい」と考えるようになり、大学院への進学を決意した。
「日高先生に学んで、先生のような指導者がもっと増えれば、日本のバスケは強くなるんじゃないかと。そこから指導者を育てる道を選びました」
©ERUTLUC
大学院に進学するにあたり、「大学院にまで進ませてもらって、親ばかりに頼ってはいられない」と考え、家庭教師のアルバイトをしようと思い立つ。業者に登録すれば話は早いが、手数料を取られてしまうのはなんとなくもったいない。そうだ、自分でホームページを作って生徒を募集すればいいじゃないか! 当時、ホームページ作製のソフトが出回り、自前でホームページを作ることがちょっとしたトレンドになっていた。2002年のことである。
ここで普通に英語や数学の家庭教師をして学費を稼いでいれば、鈴木はいまごろ大学で教員をしていたか、どこかの学校で部活動の指導をしていたことだろう。しかし、ちょっとした思い付きが、その後の人生を大きく変えることになった。
「世の中にはピアノ教室もあれば、水泳教室だってある。だったらバスケットを習いたい人もいるんじゃないか。そんなふうに思って『バスケットボールの家庭教師をやります』とホームページに載せたんです」
発想の大胆さもさることながら、すぐに依頼がきたというから驚きだ。東京都内の児童館で開かれるバスケットボールイベントの手伝ってほしい、という内容だった。これを皮切りに個人指導の仕事がポツポツと舞い込むようになる。予想通り需要はあったのだ。
もっとバスケがうまくなりたい! 子どもたちの期待に応える
どのような子どもたちが集まったのか。一番多かったのは「部活はあるけど顧問の先生にバスケの経験がないので、あまり教えてもらえない」という子どもたちだった。小学校でバスケをしていたけど中学にバスケ部がない、人間関係のもつれから中学の部活動をやめてしまい、高校でバスケ部に入るために練習がしたい、という中学生もいた。
鈴木はこうした子どもたちのもとに、ボールを持って足を運んだ。体育館で教えられる日もあれば、バスケットゴールのない近所の公園で教えたこともあった。どんな条件でも子どもにバスケを教えるのは楽しかった。ただし、この時点でバスケットボールの家庭教師を職業にしようとは考えていなかった。
「たとえば2時間で5000円(家庭教師の相場がそれくらい)もらったとして、毎日生徒がいたとしても週に3万5000円。1日も休まず働いて月に14万円。これでは職業にするのはちょっと厳しいと恩師からは言われてました」
風向きが変わったのは、活動を始めて2年くらいたったころ。それまでの個人指導以外に教室スタイルの指導を始めたことだった。
「個人指導だと、どうしてもコンビネーションプレイの練習ができません。だったら個人指導をしている子どもたちが集まって練習すれば、コンビネーションプレイが練習できるし、より効果的な練習ができるのではないか。保護者の方からそういう要望があって、バスケ教室へと発展していきました」
教える子どもたちが増え、少しずつ教室が増えていくと1人では教えきれなくなってくる。仲間に手伝ってもらうようになり、それでも足りず、知り合いの伝手を頼って指導者を志望する大学生にも声をかけるようになった。
©近藤俊哉
活動の規模が大きくなり、鈴木は2007年、株式会社ERUTLUC(エルトラック)を設立した。英語のCULTURE(カルチャー、文化・教養)を逆読みし、子どものスポーツ文化の土壌を耕し、スポーツから教養・教育を考えていくという思いを込めた。
設立当初から現在にいたるまで貫くミッションは「より多くの子どもたちに、なりうる最高の自分を目指す環境を提供する」というもの。だれもがその人にとって最高の自分を目指せる。そのための環境を提供するのがERUTLUCの仕事である、という意味だ。
このフレーズは尊敬するアメリカのバスケットボール指導者、ジョン・ウッデンの残した言葉がもとになっている。アメリカの大学バスケットボールの名門校、UCLAを12年間で10度優勝させた伝説の指導者は次のように語っている。
「成功とは、なりうる最高の自分になるためにベストを尽くしたと自覚し、満足することによって得られる心が平和な状態のことだ」
理想はどこまでも高く、夢は無限に広がっていた。
2020年4月掲載