選手と雇用先の橋渡しもするマネジャー
ITコンサルタントの大手、フューチャー株式会社のバックアップを受け、ジークスター東京は2020年に新たなスタートを切った。日本のハンドボール界に新しい風を吹き込むという高い志を抱くだけに、運営会社で働くスタッフもやるべき仕事が山のようにあった。
「今年に入ってから、フューチャー・グループ会社のライブリッツの協力のもと、チームの公式サイトや、ファンのクラブの構成、デザインもチームのコアメンバーで話し合い、決めてきました。月末になれば選手の経費の精算もあります。パワポすら使ったことのない私が、いままでの人生で一番パソコンを使うようになりました(笑)」
東京のチームらしく「おしゃれで洗練されたチームでありたい」という思いから、ユニフォームのデザインにもこだわった。
「ユニフォームに一番こだわったのは監督の横地です。ユニフォームに入れるスポンサー名って本来であればスポンサーのカラーで作るんですけど、スポンサーの了解をとってホームの白いユニフォームには黒い文字、アウェーの黒には白い文字に統一させてもらいました。ドイツ・ブンデスリーガの強豪チーム、THWキールというチームのユニフォームを参考にしています」
こうしてチームの形が少しずつできあがっていくわけだが、髙宮の仕事は事務作業だけにとどまらず、営業にまで及んでいるというから驚きだ。
選手からは監督にできない相談を受けることも
クラブチームの選手にとって仕事探しは最もシビアな問題の一つと言えるだろう。ジークスター東京と契約する選手は今季移籍してきた3選手のみがプロ契約で、あとは別に仕事を持ちながらプレーしている。
言うまでもなく、日本最高峰のリーグでプレーするためには十分な練習時間を確保しなければならないし、遠征となれば最低でも数日の休みは必要だ。職場の理解がなければとても両立はできない。
髙宮は企業を回って事情を説明し、こちらの条件を提示して、選手を雇ってもらえないかと営業した。選手から相談を受け、選手と会社の間に入ったことも少なからずあった。
「ある選手は前職が配達でしたので、1日中車を運転してご飯もコンビニで買って車の中で食べていました。おかげで腰が痛い、しかもコロナでその仕事がなくなりそうだと相談してきました。別の選手からもずっと立ち仕事で食事の時間も少なく、かなりきついという話を聞いていました」
どうしようかと悩んでいると、たまたま知り合いのハンドボール関係者が「うちの幼稚園、今年で2人やめちゃうんだよね」と話すではないか。マジで?
「すいません、でしたらうちの選手を雇ってくれませんか?」
すかさずお願いすると、トントン拍子で話は進み、2人の新たな職場が決まった。もちろん雇ってくれるならどこでもいい、というわけではない。本人がその仕事を本当にできるのか、という適正の問題がある。この場合、ひとりはもともと保育士の免許を取りたいという希望があり、もうひとりは体育大出身だから運動の指導はお手の物、という背景があった。両者の思惑がうまくマッチしたのである。
「幸い2人は園児からも職員からも信頼を得て好評のようです。幼稚園も施設の中にジークスターの写真を貼って応援してくれるとか、すごく協力的で助かっています」
チームには若い、これからの選手が多い
もちろんこのようにうまくいくケースばかりではない。他のチームに比べても若い選手が多いだけに、「えっ」と驚くようなこともあるという。
「何も考えないで住むところを借りちゃう選手もいるんです。『今月、きついんです。。。』といきなり相談されて、『あなたの給料と家賃をちゃんと考えて住むところを決めなさい!』って怒ったこともありました。ほんとにもう“おかん状態”ですよ(笑)」
オリンピックにMCとして出場予定だった
このようにジークスター東京にどっぷり浸かっている髙宮だが、第1話で紹介したように最初はあくまで“お手伝い”という感覚でチームづくりに携わっていた。もともとはハンドボールの試合会場でベンチレポーターをやったり、MCをやったりするのが本職。昨年12月、熊本で開催された女子世界選手権でもMCを務めた。
そしていつしかMCとしてオリンピックに出場することが目標となる。そしてその夢は叶う寸前のところまでいった。
「東京オリンピックのハンドボール会場でMCをやることが内定していました。日本語のアナウンサーとして、チームの紹介や選手紹介、日本戦なら実況も。ところがオリンピックが延期になってしまい、この話はいったん白紙になりました。チームにはオリンピックが終わったらマネジャーの仕事に専念すると言っていたんですけど…」
アスリートとしてオリンピックに出場できる選手がひと握りなら、MCとしてオリンピックに参加できる人間もひと握りしかいない。そんな栄えある仕事を手にしかけた。髙宮のハンドボールに注ぐ熱い思いが、夢を引き寄せたと言えるのではないだろうか。
山形の中学生はある日、偶然にもハンドボールという競技に出会った。日本語で「送球」と表現するこのスポーツが、長きにわたり人生の伴走者となろうとは知るよしもなかった。
2020年9月掲載