福田は小学校から高校まで、一貫教育校の暁星で学んだ。ボクシングの試合を初めてテレビで見たのは小学校1、2年生のころ。心に残っているのは当時の世界チャンピオン、ガッツ石松や柴田国明だ。ボクシングの世界タイトルマッチとなれば、今のサッカーワールドカップのように、多くの日本国民がテレビにかじりついた時代だった。
この時点で福田が熱狂的なボクシングファンだったわけではない。それでも気が付けば「世界タイトルマッチのときは、テレビの前で身を清めるようにして正座をして試合が始まるのを待った」というから、筋金が入るのは時間の問題だった。
小学校6年生のとき、ほおを平手打ちされるような衝撃的な試合に出会う。福岡・北九州市立総合体育館で、WBC世界ジュニア・フェザー級王者ウィルフレド・ゴメスに“KO仕掛け人”ロイヤル小林が挑んだタイトルマッチだ。強打が自慢の小林は果敢にゴメスに向かっていったが、3ラウンドにゴメスの左フックがカウンターで決まり、小林の夢が無残にも砕け散った試合だった。
「ゴメスがフットワークを使って、下がりながら小林に手を出させ、誘い込んでの強烈な左フックでした。こういうボクシングもあるのかと驚きました。倒された小林の顔が目に焼き付きました。そのころからですね、日本人選手を応援するだけでなく、来日する世界チャンピオンを喜んで見るようになったんです」
すっかりボクシングのとりことなって中学に進学すると、ボクシングの面白さを友人たちにも伝えずにはいられなくなった。偶然にも隣の席に座っていたのが香川照之。現在は日本を代表する俳優の一人として活躍し、大のボクシングマニアという横顔もよく知られる、あの香川である。
「最初は香川はあまりボクシングのことは知らなかったと思います。ただ、僕が隣で延々とボクシングの話を続けるので、香川もはまっていったんじゃないかと思いますね」
中学生の福田はやがてわら半紙を使ってボクシング新聞のようなものを作り始めた。先生をボクサーにたとえて架空の対決をさせたり、4コマ漫画を描いたり、連載小説を書いたり、プレゼントコーナーを作ったり、いわば自前のボクシング雑誌を作って楽しんだのだ。
新聞の名前は「ゴング」から始まり、当時の世界王者、工藤政志の名前から「工」、「藤政」、「志」と変遷していく。「藤政(どうまさ)」という名前はその後も生き続けるので頭の片隅に入れておいてほしい。この素晴らしく意欲的な新聞の読者は香川を含めてクラスに5人ほどいて、100号まで続いたという。
中学生になるとボクシング会場にも足しげく通うようになった。WBCライト・フライ級王者、中島成雄がパナマのイラリオ・サパタに敗れた1980年の試合は蔵前国技館で見た。香川の母、女優の浜木綿子さんがチケットを買ってくれた。いい席だった。
「4人用のマス席に僕と香川と、白い背広を着た怖いお兄さんが2人いたのをよく覚えています。それからはあちこち通いましたね。東京はもちろん、渡辺二郎さん、六車卓也さん、井岡弘樹さんの世界タイトルマッチは大阪、韮崎(山梨県)の穂積秀一vs.サパタも行きました。そうです、いつも香川と一緒でしたね」
香川が世界タイトルマッチの高価なチケットを手に入れてくると、2人の興奮はいつもマックスに達した。
「当時の世界戦のリングサイドのチケットって、金色のすごく立派なチケットだったんです。それを香川が毎日学校に持ってきて、昼休みに食堂で2人で眺めるんです。あと何日だよなあ、なんてため息をつきながら話したりして。あれは幸せな時間でした」
中学から高校にかけて、福田の生活は常にボクシングが中心だった。傍らにはいつも香川がいた。家庭用ビデオが普及し始めたころで、香川が伝手を頼って海外のビデオを入手するようになると、2人のボクシング鑑賞熱に拍車がかかる。海外の映像がとても貴重だった時代だ。中学から高校にかけての多感な時期、2人は取りつかれたように宝の映像を見続けた。
「束になって送られてきたビデオを、うちで鑑賞しました。とにかくひたすら試合を見る。朝から晩まで見る。気に入ったシーンを何度も巻き戻して見る。スローで見たり、コマ送りで見たり。あまりに見すぎて『今度は初めて見るつもりでもう一度見てみよう』ということになり、もう一度見て、2人で初めて見たときみたいにわざと驚いたりしてました。思い出してもハードな合宿でしたね(笑)」
同じ映像を大量に見続けた結果、福田と香川のボクシングの見方、価値観がほとんど一緒になったというのは必然なのだろう。そして2人はDBCという“秘密結社”を設立する。世界最大のボクシング統括団体、WBCがワールド・ボクシング・カウンシルの略なら、DBCは藤政・ボクシング・カウンシル。あの「藤政」だ。世の中のだれも知らないDBCは、しかし2人にとっては最も権威のある統括団体であり、硬派な議論を徹底して重ねて独自のランキングも作成していた。
あれから40年近くたった今でも、福田と香川は試合会場で顔を合わせるとこんな会話を交わすのだという。
「今の試合はDBC的には……」
DBCのトップ2は飽くなき欲望を満たそうと加速していく。大学生になると海外に試合を見に行った。最大のターゲットはラスベガスのビッグマッチだ。それ以外ではハワイ、グアムへも行った。常夏の島で魅力的な試合が行われているわけではない。アメリカのボクシング中継をテレビで生で見るためである。
「あとからビデオで見られるかもしれませんが、どうしても生中継を見たかったんですね。アメリカ国内なら見られるので、日本に近いハワイやグアムに行ったんです。3、4回行きましたかね。そのころは放送のスケジュールを手に入れる方法がなかったので、向こうに着いてからテレビガイドを買って午後からホテルにこもる。そうやってアメリカのボクシング中継を楽しみました」
大の飛行機嫌いだった2人は、飛行機の離着陸時には二股のイヤホンを共有し、同じ音楽を聴いて離着陸時の何とも言えない嫌な感じを和らげた。曲はいつも映画『トップガン』に決まっていた。安定飛行の間はひたすら酒を飲み、到着した先のアメリカのリングを思い浮かべた。
どこまでも、どこまでも、ボクシング、ボクシング。この世にボクシングがなければ、この2人はおそらく呼吸さえもできなかった。そう思わせる中毒ぶりだった。
2020年1月公開