ウィリアムズF1チームと聞いてピンと来る人は恐らく私より上の世代の40歳以上の方か、もしくは私と同世代の方かと思います。昔はアイルトン・セナであったり、ナイジェル・マンセルであったりと名ドライバーが所属したチームです。そのウィリアムズF1チームが8月の終わりに成績不振、資金繰りの問題から投資会社のドリルトン・キャピタルに売却というニュースが飛び込んできました。
F1で一時代を築いたチームの売却騒動。ウィリアムズF1チームとは一体なんなのか?そんな凄いチームなの?F1を知らない人にわかりやすく今回の売却騒動をお伝えいたします。
ウィリアムズF1チーム誕生
まずウィリアムズF1チームを語る上で外せないのが、創設者であるフランク・ウィリアムズ。彼は足が動きません。1986年に交通事故で重症を負ってしまい下半身不随となってしまいます。F1中継映像で映される車椅子に乗ったおじいさんと言ったほうが分かりやすい方もいらっしゃるかと思います。
そんなハンデを乗り越えて、9回のチーム総合優勝、総合チャンピオンを7人も排出した名門のチームです。そんなチームの生い立ちを追ってみましょう。
フランク・ウィリアムズもレーサーとして挑んでおりましたがうだつがあがりませんでした。そこでフランク・ウィリアムズは1966年にフランク・ウィリアムズ・レーシング・カーズというチームを立ち上げます。同居人であったピアス・カレッジをドライバーとしてF1に参戦をしたのです。1969年には2位表彰台を2回も獲得する順調なチームの滑り出し。しかしながら、1970年以降は表彰台から遠ざかってしまいます。チームが勝てなければスポンサーなど付かず資金繰りが悪化してしまいます。
チームの財政状況を良くしようと1976年に石油王のウォルター・ウルフと手を組みますが株式の60%を取られてしまいチームの所有権を手放してしまいます。そしてチームの名前もウルフ・ウィリアムズ・レーシングと改名をされてしまいます。銀行の合併のようですね。食ったほうの名前が前に、食われたほうの名前が後ろになる。こんな屈辱をフランク・ウィリアムズは味わったのでした。しかもその年のシーズンが終了した時点でフランク・ウィリアムズはマネージャーの座を解任されてしまいます。怒ったフランク・ウィリアムズはウォルター・ウルフに残りの株式を売却し、長年連れ添ったエンジニアのパトリック・ヘッドとともにチームを離脱。ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングを設立しました。
新生ウィリアムズF1チーム
ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングとして再出発したフランク・ウィリアムズ。1977年はチーム設立初年度でF1参戦ということもあり翌年以降の体制作りに奔走をした為、結果はよろしくありませんでした。
フランク・ウィリアムズはチームの財政状況をもっと良くする為、スポンサー探しに没頭します。F1は当時世界的にも人気があるスポーツであったのでサウジアラビア航空などがスポンサーに付き長年の資金難から脱することとなります。
F1のチーム代表と聞いて、レース中に指示出してるだけでしょ?と思われるかもしれませんが、F1はマシンの開発などに非常にお金がかかります。そのためスポンサーが重要になりスポンサーを見つけるのもチーム代表の仕事。そして、F1は政治がうごめく世界。いろいろな政治の駆け引きもチーム代表の仕事。レースの戦略などの最終判断を下すのもチーム代表の仕事。全てがチーム代表にのしかかってきます。
現在のF1では分業も進んでいるそうですが、現在のフェラーリはチーム代表が全てをこなそうとして全てがあいまいに進んでしまっており、マシン開発もレース戦略もグダグダになってしまっていて過去最弱とまで揶揄されている状況です。こんなフェラーリはフェラーリではない!早く復活して欲しいものです。
1980年と1981年にはウィリアムズF1チームは総合優勝を2年連続で達成します。1982年になるとターボエンジンを搭載したマシンが優勢になりつつも熟成されたウィリアムズのマシンに乗るケケ・ロズベルグがわずか1勝をあげたのみであったが着実にポイントを重ね、ケケ・ロズベルグが総合チャンピオンとなりました。
そう。ケケ・ロズベルグはあのニコ・ロズベルグのお父さん。息子のニコ・ロズベルグも総合チャンピオンになったこともありますので、親子揃ってF1チャンピオンになるとは凄い家系ですね。
ターボエンジン全盛時代になると、1984年にウィリアムズF1チームはホンダとタッグを組みます。ウィリアムズ・ホンダの誕生です。ホンダのF1復帰も相まって日本でも人気が出始めたのはこの頃からでしょうか?
偉大なドライバーを挙げるとしたら?とF1好きに聞くと3人のドライバーの名があがります。
音速の貴公子 アイルトン・セナ
プロフェッサー アラン・プロスト
暴れん坊将軍 ナイジェル・マンセル
この3人が集うのが1985年。
1985年にロータスに移籍をしてきたその年に2勝をあげた2年目のアイルトン・セナ。
1985年のドライバーズチャンピオンはマクラーレンに乗るアラン・プロスト。
1985年にウィリアムズに移籍し念願叶って2勝をしたナイジェル・マンセル。
F1の節目は1985年にあると私は思っております。(当時私は3歳ですが・・・)
ウィリアムズにもマクラーレンにもロータスにもホンダはエンジンを供給するのですが、いかにホンダのパワーが当時はすごかった証拠ですね。
アイルトン・セナの名が出たついでにセナとホンダの豆知識を一つ。
1987年にホンダはロータスF1チームにエンジンを供給するのですが、ホンダの創設者である本田宗一郎がセナに一言。
「お前さんの為に最高のエンジンを作ってやる」
アイルトン・セナは感激のあまり泣いてしまったそうです。セナはその後、ホンダエンジンとともに6年間もの間、関係を深めていくのでした。
そんなセナが乗るF1エンジンの音を聞きたくないですか?YouTubeに故アイルトン・セナのドライビングを実際に音と光で再現した素晴らしい映像です。
ウィリアムズF1チームから話が逸れてしまいましたが次回はアイルトン・セナの死から現在のウィリアムズF1チームの現状と売却についてお伝えします。
2020年10月掲載