2015年5月、ラスベガスのMGMグランドガーデンアリーナで行われた、当代一のスーパースター、フロイド・メイウェザーと世界6階級制覇王者、マニー・パッキャオの一戦は、福田のボクシング人生のターニングポイントとなった。
「メイウェザーvs.パッキャオは尋常じゃないお祭り騒ぎでした。あの試合が終わって、あれ以上のお祭り騒ぎはもう一生ない、そう思いました。ボクシングカメラマンとして、アメリカでもっとキャリアを詰むことはできるかもしれないけど、評価としてこれ以上ないとなったとき、もうアメリカでやれることはないかな、そう思ったんです」
振り返ればアメリカではいろいろなことがあった。あれだけ嫌いだった飛行機に400回は乗り、さまざまな土地に出かけて、さまざまな体験をした。これまでに書ききれなかったエピソードをいくつか紹介したい。
シカゴではホテルが火事になった。試合が終わって一杯やって寝ていたら、何やら焦げ臭い。カップ焼きそばのソースの匂いかと思って無視していたら、いつの間にか廊下に煙でいっぱいに。慌てて間一髪で逃げ出した。ボストンでは洪水に見舞われ、ゴムボートでホテルをチェックアウトするという体験をした。
飛行機移動といえば、メキシコ国境に接するテキサス州のラレドからラスベガスへの帰路は忘れられない。空港で飛行機に乗ろうとしたところ、パスポートを持っていなかったことから不法入国者のメキシコ人と間違われ、山奥に護送されてしまったのだ。
「普通は国内移動なら免許証があれば問題ないんですけど、そのときはなぜかダメで護送されました。車でどんどん山奥に連れていかれて、掘立小屋みたいなところで降ろされました。そこいらに泣き崩れているメキシカンがたくさんいるんですよ。なんだかインチキ臭い警官みたいなのがいて、これはもう映画『ランボー』みたいな水拷問を受けるのかと(笑)。本当にもうダメかと思いましたね」
事情を懸命に説明し、自宅から妻にファクスで書類を送ってもらうなど苦戦苦闘した挙句、東京生まれの日本人で現在はラスベガス在住─という事実が証明されて何とか解放。最終のラスベガス行きの便の乗り込み、その夜に予定されていた世界タイトルマッチの撮影にギリギリで間に合った。
笑いながら当時を振り返る福田だが、そのときは本当に必死だった。いや、このときだけではない。いつだって必死だった。もともと押しが強いタイプではなく、自分をアピールするなんて苦手な性格だ。言葉も文化も違うアメリカでの戸惑いや葛藤は最後まであった。それでもがんばり抜けた最大の要因はボクシングへの愛であり、自分の仕事を理解してくれた家族のサポートだった。
東京に戻ってきて3年余り。福田の姿は後楽園ホールや、大きな会場で催される世界タイトルマッチのリングサイドで必ず見ることができる。ボクシングファンも福田のことをよく知っていて、試合後に福田と一緒に写真に納まろうとするファンも少なくない。選手にとっても「あの福田さんに撮ってもらった」というのは大きな喜びだ。
福田の今、日本のボクシングを世界に発信することをミッションにしている。
「日本のボクシングを世界に広めたい。自己満足かもしれないですけど、日本のボクシング界に恩返ししたいという気持ちもあります。今まで海外で日本のボクシング写真への関心は必ずしも高くなかったかもしれませんが、海外メディアと多く仕事をしてきた私の写真であれば、使ってもらえる機会も増えるのではないかと思います。言うなれば日本ボクシング全体のオフィシャル兼広報のような気持ちで今は撮影させていただいてます」
2018年、福田の撮影した1枚の写真が全米ボクシング記者協会の佳作賞に選ばれた。後楽園ホールの全日本新人王戦、赤コーナーの投げ入れたタオルがリングに舞う1枚。日本のボクシングが世界に発信されていることを象徴するニュースだった。
リングサイド ~世界のボクシングカメラマン 福田直樹~ 終
2020年1月掲載