そのスニーカーは、きっとみなさんもどこかで1度は見たことがあると思います。
ナイキの、「エア・ジョーダン1」というモデルです。
例えば、90年代の漫画『スラムダンク』では、主人公の桜木花道が赤黒のカラーリングモデルを履いていました。例えば、去年『ミュージックステーション』に出演していたアーティストWANIMAさんも演奏中に履いていました。
このように、古今東西の現実から空想をまたぎ、幅広いところに登場するという、まさにキングオブスニーカーといえる一足なのです。とはいえこのエア・ジョーダン1、そもそものくくりでいうと、バスケットボールシューズなのです。いまではすっかり当たり前のようになっていますが、一体いつからこのシューズをスニーカーとして履くようになったのでしょうか。
マイケル・ジョーダンとナイキ
時は1984年に遡ります。
はじめて、ナイキがNBA選手マイケル・ジョーダンとのシグネチャーモデルとしてリリースしたのが、エア・ジョーダン1でした。今思えば改めてすごいことなのですが、ジョーダンは1984年のNBAドラフト3位でシカゴ・ブルズに入団したばかりで、当時21歳。そんなルーキーへいきなりナイキがシューズを提供するどころか、なんとオリジナルモデルを作ってしまうという凄まじい力の入れようでした。
言わずもがな、マイケル・ジョーダンのその後は、シカゴ・ブルズ時代にNBAで6度の優勝に輝き、個人としても5度のシーズンMVP、6度のNBAファイナルMVP受賞。また、アメリカ代表としても84年のロサンゼルス、92年のバルセロナと2度の金メダルを獲得し、世界中でバスケットの神様と言われるほどになっていきます。84年当時にその才能と将来性を信じてサポートし続けたナイキ、そしてそこから想像以上(いや、想像通りなのかな)の上昇曲線でスターダムを駆け上っていったジョーダン、両者の足跡がまさにエア・ジョーダンというシューズの歴史なのです。
そんなエア・ジョーダンが最初にお目見えしたのは1984年9月のプレシーズンゲームでのこと。シカゴ・ブルズのチームカラーを冠した赤黒のカラーリング、通称【BRED】と呼ばれるモデルでした。そこでなんとNBAは、規定違反を理由にジョーダンへテクニカルファウルを与えました。そしてチームにも、プレシーズン明けの公式戦で同様のことが起きた場合は罰金を科すと通達したのです。その衝撃・反響は凄まじく、地元シカゴの新聞でも取り上げられました。というのも、当時のNBAの規定では、シューズの色は白基調(細かなパーセンテージもあったと言われています)が原則となっており、エア・ジョーダンはこれに反していたのです。
その実際のモデル写真がこちら。
これは2016年に復刻された1984年当時のモデル【AIR JORDAN 1 “BANNED”】なのですが、ご丁寧にも【BANNED = 禁じられた】というネーミングがついており、裏地に「841018X」と、NBAから禁止を食らった日付(プレシーズン明けの公式戦の日)がシニカルにプリントされています。
ではなぜ、NBAから禁止されたのにも関わらずこのシューズが未だに存在しているのでしょうか?
答えは簡単です、ジョーダンはそれでも公式戦で履き続けたんです。
履いた場合は毎試合ごとに5000ドルの罰金が課せられることになっていたのですが、それでもジョーダンは赤黒のシューズを履き続けました。実はこの罰金は、その大きな宣伝効果を狙ったナイキが、すべて支払ったと言われています。今では「炎上マーケティング」などと言われることもある企業のこうしたシニカルな取り組みですが、この当時はとにかく鮮烈なインパクトを残しました。
そしてナイキは、NBAからの禁止にも屈さず翌1985年春にエア・ジョーダンを発売します。そのタイミングにあわせて制作されたTVコマーシャルによって、このストーリーが一気に世の中ゴト化されました。
On September 15th, NIKE created a revolutionary basketball shoe.
On October 18th, the NBA threw them out of the game.
Fortunately, the NBA can’t stop you from wearing them.
9月15日、ナイキは革新的なバスケットボールシューズを開発した。
10月18日、NBAはそのシューズをゲームから追放した。
しかし幸運なことに、NBAはあなたがそのシューズを履くことまでは禁止できない。
原文だけでも、ナイキの確固たる意志を感じますね。
私は初めてこのCMを見た時に身震いがしました。社会人としてのキャリアを広告代理店でスタートさせ、スポーツに関わる仕事に身を投じたのも、もしかしたらここで受けた影響があったのかもしれません。
ちなみに、そのシーズンの開幕直後に、ナイキとNBAは 白×黒×赤カラーであれば規約違反にはならないということで合意し、そこから様々なカラーバリエーションのエア・ジョーダンが世の中に生まれることになりました。発売初年度だけでも、なんと15カラーもリリースされているのです。
【AIR JORDAN 1 “BLACK TOE”】というモデル。初代モデルは1985年にリリースされましたが、見て分かる通り白×黒×赤と、しっかりNBAの規約に合わせたカラーリングになっており、ジョーダンも実際に履いてプレイしていました。
まさに『フットルース』!?
今となっては耳を疑う話ですが、実はエア・ジョーダンが最初にリリースされた時は、さほど人気ではなかったとも言われています。というのも当時のNBAシューズのシェアはコンバースが強かったり、ジョーダン自身もナイキとの契約前は大のアディダス好きだったりと、まだまだナイキがスポーツブランドしての地位を確立するには至っておらず、むしろ群雄割拠な時期でした。
そんな中で、このエア・ジョーダンに魅了された層のひとつが、スケーター達といわれています。規則違反にもかかわらず、それを履き続けたジョーダンとナイキの反骨精神が共感を呼んだのでしょう。もちろん、足首までしっかりホールドされたハイカット、そしてソールに搭載されたエアーと、パフォーマンスにおいても大きな恩恵となったことは言うまでもありません。
2019年に発売された、NIKE SB AIR JORDAN1 “LA to CHI”。ナイキのスケートボードライン「NIKE SB」からこうしてエア・ジョーダン1が出ていることからも、多くのスケーターに愛されていることが伺えます。
思えば、1984年にもう一つあったフット案件である、映画『フットルース』ととても被ります。
主人公が大都会から転校してきたのは、ロック音楽やダンスが禁じられた保守的な田舎町。そこで自由を求めてダンスパーティーを開くべく苦闘するケビン・ベーコンのカッコよさは、今見ても色褪せないものです。
自由を求め、規則に抗う反骨精神。
それは、当時のアメリカでは映画でもコート上でも表現されていました。
数多あるジョーダン関連のコラムや記事でも、この映画にこじつけて書かれたものはないのですが、僕は当時のナイキの人も絶対にこの映画を見ていたのではないかと密かに確信しています。
なにせ、『フットルース = 足元の開放』ですから。
2020年3月掲載