ベルリン在住の龍フェルケルさんはこれまで10年以上、サッカーを中心に活躍してきたフォトグラファーです。ワールドカップは南アフリカ大会から3大会連続で取材して、この他にもセルティック在籍時の中村俊輔選手を追いかけたり、欧州の舞台で戦う日本人選手をフォローし続けています。ワールドカップでは自主制作の写真集を制作するなど、常に他のフォトグラファーとは違う視点でスポーツを記録し続けてきました。
そんな龍さんがこの夏、東京オリンピックを取材するために故郷の日本へやってきました。大会の余韻が残る閉会式翌日、龍さんは2年ぶりの帰省でご実家にいました。たった一日だけの休息という貴重な時間の中でオンライン形式のインタビューを実施しました。
———初めてのオリンピック取材だった思います。まずは全日程を終えた今の心境はどのようなものですか?
「疲れましたね。ホントに疲れた。楽しかったけど、14日間ぶっ続けだったので思考回路が崩壊しました。フリーランスの立場だから、大手メディアが撮らない瞬間を探さなければいけないので、それを探し続けるだけで本当に疲れました(笑) でもオリンピックを撮っている感覚はまったくなかったです。
私が初めて行ったビッグイベントはサッカーのワールドカップ南アフリカ大会でしたが、そのときはドキドキが止まりませんでした。南アフリカはサッカーよりもラグビーやクリケットが盛んな国ですが、会場に入るといたくさんのお客さんがいて、大会の公式ソング(シャキーラの『Waka Waka』)が流れてくる度に『スッゲー! ワールドカップにいるよ、俺』ってなったんですが、今回は淡々と撮影を続けていました」
———それは無観客開催が影響したのですか?
「そうですね。会場MCは『応援しましょう!』と煽っていましたが、観客席には誰もいないわけで・・・。いつもなら声援やブーイングなど客席からのリアクションがあるのに、今回はそれがなかったので寂しかったですね。
ただ私が取材した中では新種目として採用されたスケートボードやBMXなどのアーバンスポーツは、選手たちからコミュニティを感じました。選手同士がお互いを称えながら競技が進行していくので、そこでテンションが上りました」
———選手同士で盛り上げる文化があるのでしょうか?
「もともとコンペティションから始まった競技ではなく、街中で仲間が集って『さぁやろう!』というストリート文化の中で生まれたからだと思います。だから、選手たちはライバルであると同時にみんな仲間という意識があるのでしょう。クールなトリックが決まると素直に称え合っていてその姿をみて、オリンピックに相応しい競技だと感じました」
———今大会はどこかの依頼を受けて取材をしていたのでしょうか?
「数年前に友人の紹介で取材するようになったクライミングはいくつか仕事が決まっていましたが、それ以外はいい写真があれば使ってもらえるという感じでした」
———取得が難しいとされる取材パスはどのように手配されたのですか?
「申請の受付が始まった2年くらい前にドイツのメディア協会に問い合わせました。欧州から見ると日本はやはり遠いので交通費や高騰するホテル代など、取材にかかる経費は安くありませんから、取材希望者が多くなかったようです。その点、私は実家もありますし、東京に友人も多いので、宿泊費は抑えられると思っていたんですが、コロナ禍の影響で直前になって組織委員会が指定したホテル以外には宿泊できないというルールが決まったので、そこは大きな誤算でした」
———報道では一部の大会関係者がプレーブックに反した行動をしていたと話題になっていましたが、実際はどんな感じだったのでしょうか?
「ほとんどの報道関係者は従っていたと思います。取材者は朝から晩までは働いているので遊んでいる暇はまったくありません。
主な移動手段はメディア専用バスでしたが、ホテルからバスターミナルまで専用バスで行き、そこから各会場へ向かうバスに乗り換える必要がありました。例えば、朝9時から競技が始まる場合、乗り継ぎ時間を考えると3時間前にはホテルをでなければなりません。競技が終わってホテルに着くと0時を回ることもあります。そこからシャワーを浴びて仮眠をとり、早い時間にホテルを出るという感じでした。
ただ当初はバスの運行本数が少ないことや、渋滞によるダイヤの乱れなどもあって、開幕して2、3日は運営も混乱していました。でも大会が進むにつれて徐々に改善されていき、私たちも乗り継ぎ時間などを考えた行動が取れるようになっていましたね。
運営に携わる人やボランティアの方も目まぐるしく変わる状況の中で、柔軟な対応に迫られることもあって、大変だったんじゃないかと思います」
———通常であれば1時間でいけるのに、2、3時間はかなり辛いですね。
「そうですね。仕方のないことでしたが、移動のストレスは大きかったです。サッカーのワールドカップのように各地を飛行機で巡る移動疲れには慣れていますが、自由な移動ができないストレスは初めての経験でした」
———メディアセンターの食事が話題になっていましたが、どうされていたのですか?
「メディアセンターの食事は高かったのでほとんど使いませんでした。コンビニでおにぎりやサンドイッチを買って合間で食べたので、食事というより補給ですね(笑) 最初は「日本のコンビニ最高!」と喜んでいましたが、3日4日と続くうちにだんだんキツくなってきました。なので、プレーブックにある15分以内の外出でいける範囲でテイクアウトを利用していました」
———少し遡りますが、入国のときはどうでした?
「入国の際に72時間以内と96時間以内のPCR検査の陰性証明の提出を求められました。ドイツでは街中の至るところに簡易検査場が設けられて、費用も3000円程度と気軽にできるのですが、提出には公式なものが求められていたので、それは15,000円以上もするので痛い出費でしたね。
あとは専用アプリがあって、PCR検査の結果や滞在日数や登録して、毎日、健康状態の登録が義務付けられていました。この他にも滞在先を登録するウェブサイトや、取材各社にはCLO(コロナ・リエゾン・オフィサー)を選出することが義務付けられていて、取材予定者のPCR検査の結果や健康状態、行動予定などを詳細にチェックしてADSというシステムに登録していました。あとは取材希望を出すためのウェブサイトもあったりと、ルールやシステムが複雑すぎて、最初は何をしなければいけないのか分からなくて混乱してしまいました。
同業者から聞いた話では、システムエラーで登録すらできないトラブルもあったようで、入国するまでが一番大変でした。おそらくコロナ禍でなければ、もっとスマートなシステムになったのだと思いますが、日々変化し続ける状況下での準備の難しさを物語っていたと思います」
———大会前と言えばドイツ国内でオリンピックに対してはどのような反応だったのでしょうか? ヨーロッパではちょうどユーロが開催されて、開催都市によって集客数の制限がありましたが、決勝のウェンブリー・スタジアムは満員になっていました。
「ユーロについては、決勝戦の無制限での開催はやるべきではなかったと思います。日本のSNSでは『これぞ、サッカーだ』という書き込みも見かけましたが、結果としてウイルスは広がってしまいましたから。その点、ドイツの開催都市ミュンヘンは20%を上限にしていました。
ユーロは大きなイベントですが、ひとつの開催都市に会場はひとつだけで、観戦に訪れる人も当該国中心で限定的ですが、オリンピックはひとつの都市にいくつもの競技会場が設けられて、出場する国の数も桁違いです。
東京オリンピックについては、自国開催ではなかったので開催の是非について話題になることは少なかったです。しかし、ドイツで開催されていたら大きな議論があったと思いますし、日本と同じように開催に否定的な意見も多かったかも知れません。もし開催するとしたら、無観客しかなかったと思います」
2021年8月公開