セパタクローの取材を本格的にはじめたのは2013年のことだった。気がつけば写真を始めて10年が経っていた。僕の写真はパッと見は派手だけれど「お、カッコいいね」で終わってしまうものが多かった。それは自分でも感じていたし、尊敬する先輩からも「お前の写真には説得力がない」と指摘されていた。
写真を始めたとき、同年代にライバルは多かった。フリーランスでスポーツカメラマンになるのは狭き門で、さらに生き残るのは簡単ではなかった。特に24歳で妻帯者の僕には下積みをしている余裕はなかったから、人とは違うアプローチを考えた。写真について考えるのは二の次にしていた。まず意識したのは大きな現場を踏むことだった。そんな中、僕はワールドカップやオリンピックを目標にして、個展の開催も視野にいれて、10年足らずで達成することができた。手前味噌だけれど、順調なキャリアだったと思う。
でも心のどこかに自分が「ニセモノ」だという劣等感は常にあり、認めるのが怖かった。その不安を拭い去るためにガムシャラで走り続けた。しかし、2回目の個展を終えたとき、自分が置き去りにしてきたものの大きさを認めざるを得なかった。もう新しい作品のイメージが湧かなくなっていたのだ。どうすれば良いのか、見当もつかない状態が続いた。先輩の言葉が重くのしかかる。
「若いとき俺より上手いヤツはいたよ。でもみんな消えた。お前はどっち?」
僕は焦っていた。
それからしばらくは写真について考える日々が続いた。辛うじて思いついたのはドキュメンタリーだった。ひとつのテーマを深く掘り下げる表現は、いつかチャレンジしたい分野ではあった。テーマをどうするか悩んでいた僕の脳裏に浮かんだのはセパタクローだった。
2004年に初めて取材して以来、年に1度、取材するかしないかだけれど、彼らとの関係は続いていた。2006年にはタイのプロリーグに挑戦していた代表選手を現地で取材したり、2010年の広州アジア大会では史上初となる団体種目での銅メダル獲得の瞬間にも立ち会った。そして、セパタクローを本格的に追いかけようか考え始めた2013年は、彼らが目標としている仁川アジア大会を翌年に控えていた。タイミング的にもちょうどいい。一年とちょっとになるけれど、できる限り彼らを追いかけてみよう、と決めた。
2006年、タイのロッブリーにて。当時、日本代表だった寺本進を撮影した。
2010年、広州アジア大会。銅メダルを決めた試合では若手が躍動した。
2013年9月。日本代表は世界選手権を控えていた。早速、挨拶を兼ねて練習を撮影させてもらうことにした。練習場所として伝えられたのは東京郊外の小学校だった。平日の夜、日中の厳しい残暑は和らいでいたけれど、少し動くだけで、じっとりとした汗が滲んだ。
「チャッ、チャッ、タタタ、ダン、バシッ、ドン!」
暑さ対策だろうか体育館の扉は開け放たれていて、明かりとともに、プラスティックで編み込まれたボールを蹴る乾いた音と床を蹴る音が漏れていた。簡単な挨拶を済ませてから、写真を撮ろうとしたとき戸惑った。会場は小学校の体育館だ。お世辞にも撮影環境が良いとは言えない。それまでの作風は背景をシンプルに処理することで、見せたい部分を可能な限り強調させるスタイルだったから、背景をキレイに処理できない状況に困惑した。そもそも自分がこの練習で何を撮ればいいのかさえ分からなかったのだ。
このときの僕はドキュメンタリーの「ド」も理解していなかった。ドキュメンタリーとは被写体そのものを伝えることだ。多少の演出を施すことはあったとしても、それが過剰になって良いはずがない。そう考えれば、背景の良し悪しや照明の条件などは二の次。まずは被写体と向き合わなければならない。そして、その内側にある「何か」を見つけるのだ。写真はその「何か」を伝える媒体で、カメラはそれを残すための道具なのだ。当時の僕はそのことがわかっていなかった。
この日からセパタクローを追いかけると共に、本当の写真を求め続ける日々が始まった。
2013年、日本代表の練習を初めて撮影した。
2022年9月公開