2019年末、「ノア・グローバルエンタテインメント」社長の武田有弘は、親交のあるプロレス業界の先輩経営者である高木三四郎とコンタクトを取った。
高木が社長を務めるDDTプロレスリングは2017年9月よりサイバーエージェントの傘下に入っていた。ノアで契約更新に至らなかったレスラーの活躍先を探す目的で連絡したのだが、話の流れから経営面の状況を打ち明けていた。
「高木社長に選手の件を伝えたときに〝(背景に)何かあるな〟と察したみたいで、それで僕も話せるレベルのことは正直に言いました。困ったときはお互いに話し合える間柄でしたから」
事態はここから急展開する。
サイバーエージェントが救済に動き、2020年1月末に「ノア・グローバルエンタテインメント」の全発行済株主を取得して100%子会社化したことを発表。社長に高木が就任し、武田も取締役として団体に残った。そして同年7月、DDT、DDTフーズ、ノアの3社を経営統合して「Cyber Fight」が立ち上がり、武田は同じく取締役としてノアの事業責任者を担うことになった。
武田は一連の出来事を「奇跡」と表現する。
「何もサイバーエージェントの傘下に入ることを期待して相談したわけではないですから。ノアが困っているから、と高木社長が一生懸命に動いてくれたおかげです。今でも夢じゃないかって思うときがありますよ(笑)」
元々ノアとDDTが昔から団体として良好な関係にあったことも大きかったようだ。傘下に入ったことでABEMAでの放送も決まり、コロナ禍の難局を乗り切ることができた。結果的には武田のアクションが、ノアの新しい船出となった。
武田が仕事としてプロレスに関わることになるのは1990年代前半の大学時代にさかのぼる。
小学生のころからプロレス好き。福岡県内の大学に進学した彼は、新日本プロレスの福岡臨時事務所でアルバイトをするようになる。福岡ドームや福岡国際センターなど現地で開催されるビッグマッチに合わせて事務所が時限的に開設され、そのときの経験も買われて大学卒業後に新日本プロレスへの入社が決まる。
当初からコンテンツ事業に興味があった。1990年代、海外に目を転じればボクシングなどでPPV(ペイパービュー)が進んでいた。地上波キー局の放映権ビジネスからやがて転換に踏み切らなければならない時代がやってくると踏んでいた。
コンテンツ事業を抱える宣言部に所属して、主に広報的な役割を担う。放映権を持つテレビ朝日をはじめプロレスメディアに人脈を広げていく。
「僕が入社したころの新日本はとにかく景気が良かった。どの社員も最初は研修で営業の仕事をやらされるんですけど、売れちゃうから特に苦労もない。宣伝部に配属され、コンテンツ事業をやりたかったわけですから、仕事がとにかく楽しかった」
仕事を目いっぱいやりつつ、時間をつくってスポーツビジネスの書籍を読み漁った。コンテンツ事業において何か新しいことをやってみたい。「映像のマルチユース」ができないか、と待ち続け、ついにそのチャンスが訪れる。
2000年7月30日、横浜アリーナ。
1998年に引退していた長州力がワンマッチでの復帰を決断し、〝邪道〟大仁田厚と電流爆破マッチで戦うことになった。大仁田の度重なる挑発もあって機運が高まったなかでこのカードが決まったとあって1万7000人超収容の会場は札止め。そして何よりもCSのPPV放送を初めて実施している。地上波との兼ね合いもあって調整と実現に尽力したのが武田だった。
新日本のコンテンツ事業に武田あり。
会社内で評判を上げていた最中、彼は思ってもみない行動に出る。実質的なオーナーであるアントニオ猪木の格闘技路線にシフトする会社の方針に反発を強めていた武藤敬司に誘われる形で、三沢光晴をはじめとするレスラーの大量離脱を招いていた全日本プロレスに移籍した。新日本に不満はなかったのだが、プロレス界の大エースに頼りにされたことは単純にうれしかった。
全日本に入社してからは地上波やCS放送など同じくコンテンツ事業を任されていた。しかし「(会社と)考えがなかなか合わないことも多かった」ため1年で退社する。それでもフリーランスとして事業を手伝うなど、関係性は保っていた。
そんなころに新日本の元上司から「ウチに戻ってこいよ」と声を掛けられる。新日本が嫌で退社したわけではないため、断る理由もなかった。ただプロレス全体が低迷期に入り、業界のトップを走る新日本も例外ではなかった。経営危機もささやかれていた。
「戻って何が驚いたかと言うと、知っている社員の人が結構退社していて、知っている人が少なかったこと。でも(2005年11月にゲーム会社の)ユークスさんの子会社になって、ゼロスタートで採用したり、組織づくりをしたりして、新しくスタートするうえではやりやすいところもありました。〝俺たちは業界の盟主だ〟みたいにプライド高くやっていたらうまくいかなかったと思う。会社全体で負けを1回認めることができたからこそ、次に進めたんじゃないかなとも思います」
あの爆発的なプロレス人気が嘘のように消えた。
だがそれでもコアなファンまで消えたわけではない。地道に活動を続け、テレビ朝日も踏ん張って地上波放送を継続してくれた。
団体が苦境にあった2000年代、ピンチを救った人材がいた。自らを「100年に1人の逸材」と評す棚橋弘至だった。
ファイトでも魅せ、試合後もエアギターで盛り上げ、メディアにもプロモーションにも自ら表に出ていく役目を担っていく。武田は感動すら覚えていた。
「リング以外であっても全力で協力してくれる。社員がやろうとしていることも、メディアやファンがやってほしいことも。自分でみこしをつくって、みこしが大きくなったら自分で乗る。そんなレスラーを、僕は今までみたことなかった。レスラーがやってくれたら、それに勝るものはない。新日本が復活していくのは間違いなく彼の頑張りがあったからだと思います。周りが用意したみこしを乗るのが普通。でも棚橋選手は、社員に任しちゃおけないっていう危機意識があったのかもしれませんね」
新日本は2012年にカードゲームなどを扱うブシロードに経営権が移り、これまでの踏ん張りもあって息を吹き返していく。
武田は執行役員を務め、コンテンツ事業で復活の軌跡に一役買ってきた。DDTに所属していた飯伏幸太の参戦でコンタクトを取った高木社長とはここから信頼を深めていく関係になる。やりたいことは大体やった。一つの役目を終えたと判断して武田は再び新日本を離れることになる。
2021年10月公開