9.58
これは何の数字だと思われますか? これは陸上の男子100m走の現在の世界記録です。この記録が生まれたのは2009年8月16日、ベルリンのオリンピック競技場で開催された世界選手権でした。あれから10年以上、未だに更新されておらず、しばらくその気配すらありません。そんなとんでもない記録を叩き出したのは「ライトニング」ことウサイン・ボルトです。
走る、跳ぶ、投げる。スポーツの基本は陸上競技にあると言われています。あらゆるスポーツの原点だからこそ、陸上はオリンピックの花形競技であり続け、その中でも100m決勝は世界中から注目を集めます。なぜならば、ただ「走る」かけっこは人種や洋の東西を問わず誰もが一度は経験したことがある運動で、その世界一を決めるオリンピックの100m決勝はシンプルかつ究極的な種目だからです。
例えば「世界一のサッカー選手は?」という問いの答えは無数にあります。ある人はマラドーナと答え、またある人はメッシ、あるいはクリスティアーノ・ロナウドと答えるかも知れません。いずれの答えも間違いではありませんが、正しいわけもありません。しかし「世界で一番、足が速い人は?」の答えはひとつしかありません。 そんな種目で10年以上も破られることのない記録を持つボルトは近年最大のスーパースターと言えると思います。
当然、スポーツ写真を生業にしていたカメラマンにとって、一度は撮ってみたい被写体でしたが、僕にとっては縁遠いアスリートでもありました。彼を撮ろうと思えば、オリンピックか世界選手権、世界各地で開催される陸上の大会に足を運ばねばなりません。
しかし、フリーランスの僕がオリンピックを取材することは難しく、仮に取材できることになったとして、もっとも注目を集める100mを撮影できる可能性は限りなく0に近いでしょう。また世界選手権も取材規制が厳しくハードルは高めです。世界各地で開催される大会に行くことは可能ですが、たった一人を撮るためだけに海外出張を組むのも現実的ではありません。「いつか撮りたい」と思いつつ、月日は流れ、気がつけばスーパースターにも引退の影がちらつき始め「やっぱり無理だよなぁ」と諦めかけていたある日、チャンスが巡ってきました。
2015年に北京で開催された世界選手権の取材パスを手に入れられる可能性が出てきたのです。北京であれば経費も安いので、取材への抵抗は少なくて済みます。おそらくこのチャンスを逃したら、現役選手としての彼を撮れる可能性は0になります。少し悩みはしましたが、それでも僕は北京行きを決意しました。
会場は北京国家体育場でした。通称「鳥の巣」と呼ばれる8万人収容の巨大なスタジアムは北京オリンピックのメイン会場として生み出されました。同大会で使用された施設のいくつかは、負の遺産として廃墟と化していたニュースを耳にしていたので、どんなものかと心配していましたが、アジアでもっとも優れた陸上競技場のひとつであると確信できるほど見事なスタジアムでした。
ボルトを撮るために僕は撮影予定を入念に組むことにしました。最初に決めたのは「当たり前の写真は撮らない」ということでした。世界陸上には世界中から多くのフォトグラファーが集まります。彼らの中に混じっていれば記録写真は撮れますが、わざわざ僕が撮る意味はありません。そこで今回は記録的な写真ではなく「ウサイン・ボルト」をテーマにした物語性のある組写真(複数の写真で構成する写真の見せ方)を作ることにしたのです。
彼は3つの種目にエントリーしていました。100m、200m、4×100mリレーです。100mと200mは予選、準決勝、決勝、4×100mリレーは予選と決勝で合計8本のレースが予定されていました。この中で僕が撮れるチャンスがあったのは個人種目の6本のレースでした。
通常100mはゴール付近で撮るのが一般的ですが、すべて同じところから撮れば写真に変化がつきません。そこで、種目の特性を考えて、そのときしか撮れない瞬間を選んで、撮影ポジションを決めることにしました。
ここからは現場のカメラマンの心の声と共に写真多めでをご紹介していきます。
念願だった男にやっと会えました。100m予選でした。僕はまず手始めにスタートの瞬間を撮ることにしました。大前提として彼が予選で消えることは考えにくく、最後は流してくることが予想できます。であれば、ここはスタート周りを撮るべきだと判断したのです。
ちょっとした表情すらカッコよすぎます
「On your mark(位置について)、、、Set(よーい)、、バーン(どん)!」
運動会の徒競走と同じリズムでスタートする100mですが、運動会は運動会でも世界最速を決める運動会です。僕自身、初ボルトに興奮気味だったと思います。撮れた写真は満足のいくものですが、実はこのとき大きなミスをしてしまったのです。
それは「On your mark」とコールされて、選手たちがスタートポジションを作り始めたとき、彼が人差し指を天に向けて一瞬祈るような仕草をする瞬間を撮り逃してしまったのです。
「やっちまった!」
ある程度のミスは想定内でしたし、チャンスはあと5回もあります。続く準決勝では走っている瞬間にフォーカスした写真を考えていたのですが、200mでも撮ることもできると判断して、再度、スタートポジションを狙っていくことにしました。
ノリノリの彼は何度もカメラ目線でポーズを決めていきます。テレビの向こう側にいる世界中のファンへのサービスでしょう。さすがスーパースターです。気合も入っています。そして、いざ狙っていた瞬間!! となった、そのとき左側から何かが僕の視界を遮ってきました。
「ええええええ!!!!!!?」
スタート前の表情を連続写真で!
邪魔者の正体はフォトグラファーの天敵ステディカムです。テレビ中継で選手の息遣いが聞こえるほど近くに寄った映像をご覧になったことがある方も多いかと思いますが、それまで固定ポジションでしか撮れなかった映像の世界に、カメラマン自身が動きながらの撮影を可能にしたステディカムは画期的なシステムです。
が、しかし、我々フォトグラファーにとっては良い瞬間になると尽く割り込んでくる天敵以外の何物でもありません。しかし、それもまた現場ならでは。ちなみに天敵とは言いましたが、彼らも自らの仕事を全うしているだけで悪気がある訳ではありません。現場の熱気をより多くの人々に伝えるために重要なお仕事です。
つまらないことでカリカリしていてはいい写真は撮れないと気持ちを切り替えることもフォトグラファーに求められる資質のひとつ。ということで、早々に気持ちを切り替えることにしました。なぜならば、決勝レースはこの2時間後に迫っていたからのですから。
つづくッ
2021年6月公開