一概にフォトグラファーと言ってもインフィールドとアウトフィールドという2種類のカテゴリーに分けられています。インフィールドは文字通りトラックの内側に入れる権利を与えられたフォトグラファーでその数は10名程度です。主に世界陸連の公式や世界的な大手通信社、ホスト国の最大手新聞社のフォトグラファーたちです。それ以外のフォトグラファーはアウトフィールド、つまりトラックの外周からしか撮ることができません。
これは競技の進行を妨げないための区分なので異論はないのですが、アウトフィールドフォトグラファーはトラックのフィニッシュエリアでも地上レベルでは真正面に入ることができません。
アウトフィールドが許されているのは、スタンドエリアと地上レベルでは真正面から少し外れた場所だけでした。そこから撮れるのはゴール手前から第一コーナーを駆け抜けていく瞬間です。スタンドからは9名の選手を一枚の写真に収めた絵が狙えます。
どちらにポジションにするのか悩んだ結果、僕はスタンドに上がることにしました。なぜなら、同時進行している他の競技を撮りながら決勝を待っていたのですが、気がついたときには地上のポジションは多くのフォトグラファーで埋め尽くされていたからです。
いつもなら僅かなスペースを見つけて潜り込むところですが、このときはそんなスペースを見つけることができないほどの混雑ぶりでした。それほどにウサイン・ボルトの100m決勝は注目を集めているのだと、改めて実感した瞬間です。
ポジションを決めたら今度は使用するレンズを決めなければなりません。ここでは主に2種類のレンズが使われます。400mmの超望遠レンズか70-200mmという中望遠ズームレンズです。
400mmを使えば、スタート直後はすべてのコースを収めた画角ですが、ゴールシーンでは3コースくらいに絞られます。70-200mmではゴールで9コースすべてを収めることができますが、それ以外は間抜けな絵になってしまいます。
色々考えた結果、僕は2種類のレンズを使うことにしました。プランはこうです。スタート直後から30m付近までは400mmの超望遠レンズで9人が一斉に走っている瞬間を狙い、そこでカメラを持ち替えてゴールの瞬間は思いっきり引いた絵を狙うことにしたのです。もうひとつのカメラには70-200mmではなく50mmの単焦点レンズを使うことにしました。
スタンドエリアの手すりには70-200mmを付けたカメラが無数に備え付けられていました。インフィールドのカメラマンたちが全体を収めた絵をリモートで狙うために用意したカメラです。
リモートカメラの写真で有名なのはサッカーです。ゴール裏から撮られたネット越しのゴールシーンの写真を見たことがある方も多いと思います。これはフォトポジションで撮影しているフォトグラファーのカメラに無線機器を取り付けて親機として、ラジオ電波を使いゴール裏に設置しているカメラ(子機)のシャッターも同時にきるというシステムです。サッカー以外にもバスケットのゴール裏や陸上ではトラックのフィニッシュエリアや跳躍、投擲種目にも使用されています。
大きなレースであれば、大手通信社は一人で4、5台のリモートカメラを仕込みあらゆる角度から狙っていると聞いたことがありますが、あながち嘘ではないと思えるほどの光景でした。もし、ここで僕が70-200mmを使えば、リモート操作されたカメラと同じ絵しか撮れません。しかも、彼らは真正面で本命のいい絵を撮りながら、あらゆる角度からこのレースを狙っているのです。
そこで僕はさらに一歩引いて、満員のスタンドと天井部分に描かれた青空のイラストを収めた絵を狙うことにしました。このイラストについて詳しいことは分かりませんが、大気汚染が深刻な北京で普段は見ることができない青空を描いたのかも知れません。
もっとも中国では世界的なイベントが催されると快晴になります。世界中から来るVIPや報道陣に向けてアピールするためだと思いますが、大会前から市民に車の乗り入れを制限して青い空を作り出しているそうです。いかにも中国らしいなと思い、この不思議なイラストを写し込むことにしました。
ということで、100m決勝のプランは決まりました。スタートから30m付近までは400mm、そこでカメラを持ち替えてゴールシーンを狙う。簡単だと思うかも知れませんが、わずか10秒足らずでフィニッシュしてしまいます。
重い400mmを付けたカメラを倒さないように抱えつつ、サブカメラを構えて構図を決めて、ピントを合わせてシャッターを切る。しかも、ボルトが走る決勝レースの重圧の中で。なかなかリスクの高い選択だと思いましたが、せっかくここまで来たのだから挑戦してみることにしました。
100m決勝は9.79秒、本当にあっという間の出来事でした
つづくッ
2021年6月公開