2008年秋、世界経済を揺るがした「リーマン・ショック」は、セレスボクシングスポーツジムにも影を落とすことになる。女性も子供も安心してボクシングを習える場として一時260人ほどの練習生を集めて人気を博していたが、これ以降急速に減っていくことになる。退会に経済的理由を挙げる人が多かったという。
「年間の売り上げが何百万円も減ってしまうような危機でした。でもボクシングを嫌いになって離れるんじゃない。何かアイデアを出したり、自分が飛び回ることで何とかなるんじゃないかっていう思いはありましたね」
静観してはもっと事態がひどくなってしまう。入会金無料キャンペーンに、入会者にボクシンググローブプレゼント。あの手でこの手でアイデアを出して練習生を募った。さらには法人会員、特別会員を増やそうと営業に出向く機会を増やし、セレスジムにいるプロボクサーの実績や試合予定をアナウンスするために「月刊セレスジムニュース」をつくった。原稿を書くのはもちろん小林自身だ。ジムの新聞は営業ツールになるし、試合で応援してくれる人が増えれば新たに練習生になってくれるかもしれない。一方でジムの充実を図るため、現役時代の小林を慕っていた後輩ボクサーを社員として雇い、専属トレーナーを担ってもらうことにした。
小林の頑張りもあってジム離れの波を何とか食い止め、「リーマン・ショック」を乗り越えたのだった。
小林はジムを経営する立場となってあらためて気づいたことがあった。
ボクシング人気そのものが上がらなければ、ジムの経営だっていずれ行き詰ってしまう可能性があることを。人気を上げるには、世界のトップ・オブ・トップに打って出るようなボクサーが現れないといけない。そのためには子供のころから〝英才教育〟を施すような環境があったほうがいい。ジムの立ち上げ当初から子供たちの指導に力を入れてきたのは、将来のボクシング界を考えてのことでもあった。
「リーマン・ショック」以前の2008年8月に、後楽園ホールで第1回全国U-15ジュニアボクシング大会が開催された。あの井上尚弥も出場して、優秀選手賞に選ばれている。アマチュアボクシング界に理解を求め、小林自身も大会実現に向けて奔走した一人だった。
「中学二年生でジムにやってきた岩佐(亮佑)だって一から教えて世界チャンピオンになっているわけだから、もっと小さいころから教えていたらっていうのもある。育成が大事なんじゃないかっていうのは大橋ジムの大橋秀行会長(2008年当時、東日本ボクシング協会会長)をはじめ、ワールドスポーツジムの齊田竜也会長も考えていて、じゃあU-15の大会を立ち上げようよ、と。井上選手や田中(恒成)選手がプロで凄く活躍しているのを見ても、非常に意義のある大会に関われたことは個人的にも非常にうれしかった」
会長の仕事としてやらなければならいことに、ジムの自主興行がある。興行が決まると会場を貸し切り、マッチメーク、チケット販売と多忙を極める。外国人選手を招へいしたり、タイトルマッチともなると経費が掛かる。「お金をつくるのは会長の仕事」と小林は言う。ジムの後援会、スポンサーをはじめ、チケットを売る営業活動が中心になってくる。
「午前中と午後は営業に出て、夕方にトレーナー業や事務的な仕事をして、夜は後援会やスポンサーの人と食事する機会も増えます。売り上げを多くして、何とか興行を黒字に持っていかないといけない」
主催興行は自分のジムの選手を多く出場させることができるし、後援会やスポンサーにも喜んでもらえる。ただ、小林が自分の手でチケットを売る際に、必ず守っていることがあるという。
「『絶対に勝ちますから』という言葉は使わないようにしているんです。ボクシングに絶対はないし、選手のプレッシャーにもなる。『会長が絶対勝つと言ってたぞ』ってもし伝わったら可哀想じゃないですか。だから『勝つために一生懸命頑張ります、ジムとしても一生懸命教えます』と言うしかない。実際、一生懸命にやってくれれば、どういう結果であっても受け止められる。僕はそれでいいと思うし、チケットを買ってくださる方も理解してくれていると思います」
岩佐は順調に勝ち星を伸ばしていた。
2010年9月には最強後楽園のバンタム級トーナメントで優勝し、デビューから2年で8戦全勝(6KO)のキャリアを誇った。メディアからも注目を集めるなか、2011年3月、日本バンタム級王者・山中慎介に挑戦。見応えのある攻防が続くも、10回TKO負けに終わってしまう。師は弟子の耳もとでこうささやいたという。「お前は精いっぱいやった。胸を張ってリングを降りようぜ」と。日本王者になって世界王座に挑戦するプランは振り出しに戻ったものの、山中との熱戦は岩佐にとって得がたい貴重な経験となった。
その8カ月後に同王座決定戦への出場権を得た。世界王座にチャレンジする山中が返上したことに伴い、ゼロフィット・ジェロッピ瑞山と対戦して3-0判定で勝利。「世界への通過点」としていた日本タイトル奪取に、チーフトレーナーを務めた小林も喜びを爆発させた。
「世界チャンピオンが目標だから、まずはホッとしただけ。でも自分が日本タイトルを獲ったときよりも嬉しかったな。ジムを立ち上げて、いろいろあって、リーマン・ショックのときにピンチになって……岩佐も山中選手に負けたけど、そこからもう一度奮起して、タイトルを確実に獲ってくれた。通過点だけど最高にうれしかったよ」
サウスポーは師匠と同じだが、触らせずに左カウンターを打ち込むスタイリッシュなボクシングは、ファイターに近いタイプの小林とまるで違う。「その選手に合った特長を活かす」小林の指導方針が、実った瞬間でもあった。
岩佐は13年12月には東洋太平洋バンタム級王座も手にした。しかしながら世界挑戦のチャンスは、なかなか来なかった。この時期が小林にとっても辛い時期だったという。
「東洋のタイトルを獲っても、世界挑戦の話がなかなか進展しなかったからね」
会長として世界挑戦の話を進展させることができないことを申し訳なく思っていた。そして日本タイトル奪取から3年半、ついに世界タイトルマッチの話が舞い込む。それはアウェーとなるイギリスでリー・ハスキンスとのIBF世界バンタム級暫定王座決定戦を行なうというオファーだった。
2024年3月再公開