地元の福島に戻って新しい生活が始まっていた。
名門・中央大学サッカー部を1年で関東大学サッカーリーグ1部に引き戻し、ボールを蹴る毎日からも卒業した。銀行に就職して数字とにらめっこ。本店営業部に配属され、仕事と勉強に追われた。
「試験がいっぱいあるので勉強しなければならなくて大変でした。為替、手形、融資と経済の仕組みが分かるだけで面白かったですね。営業もやらせてもらっていましたから」
とはいえスポーツで体を動かしたくなるのはアスリートの性。週末は地元のアマチュアクラブでサッカーを続けた。ウイークデーは猛烈に仕事、オフは楽しくサッカーというルーティンが出来上がっていた。
気になっていたことがあった。就職活動をまったくせず、プロになることを信じて当時J2の川崎フロンターレの練習生として入った同級生、中村憲剛の動向だ。すると入団にこぎつけ、なおかつ1年目からトップ下で活躍していた。
中村が輝いて見えたという。
「何だかうらやましかったんです。大好きなサッカーをやって、プロになって試合に出て活躍して。中村本人から"テラはプロになるもんだと思っていた〟と言われていました。だから俺は、信念が足りなかったんだなってあらためて思ったんです」
小学生のころから東北で注目され、大学でも同じ学年で真っ先にAチーム入りしている。サッカーの経歴において無名に近かった親友の活躍に触発される自分がいた。銀行の仕事に何も不満はなかった。ただ「自分が信念を持ってサッカーをやり続けていたらどうなったか」との思いは萎むどころか日に日に膨らんで、抑えきれなくなるまでになってしまった。
わずか2年で退社を決断する。先輩や同僚たちに引き留められたものの、サッカーへの未練を断ち切ることはできなかった。
24歳になっていた寺内が入団したのが、仙台に拠点を置く東北社会人サッカーリーグ1部のNECトーキンだった。
社会人チームゆえの難しさはある。正社員としては採用されなかったため、派遣として夕方まで働いたうえで夜7時からトレーニングを行なった。銀行時代に比べれば収入もガタ落ちになったが、2年間で貯めたお金で何とか切り盛りした。仕事がある以上、サッカーに費やせる時間が思う存分あるわけではない。それでも好きなサッカーをやれるだけで幸せではあった。勝っていけばJFL(日本フットボールリーグ)の道もあるだけに、モチベーションも高かった。
銀行マンとして仕事をバリバリやってきただけに、2年後にはNECトーキンの関連会社で社員になることもできた。27歳のときにはずっと交際していた中央大学サッカー部の同級生マネージャーと結婚。公私ともに充実して迎えた2008年シーズンはグルージャ盛岡(現在のJ2、グルージャ岩手)に次ぐ2位に。全国社会人サッカー選手権で準優勝し、全国地域リーグ決勝大会に駒を進めた。ここで3位以内に入ることができれば、目標に置いてきたJFL昇格となる。
だが待っていたのは、よもやの出来事だった。2008年9月のリーマンショックが会社の経営を直撃。企業チームとして維持することは難しいと廃部を通達され、地域リーグ決勝大会の出場も辞退した。
このときのショックは言うまでもない。
「元々JFLを目指すからっていうことで(入団の)話をいただいて、僕もチャレンジしたいと思ってきて、もう少しっていうところでしたから。メチャメチャ残念でしたよ」
寺内は人生の帰路に立たされることになる。サッカー選手をメインにやっていくか、それともサッカーを切り離していくか。
家族を養っていくには夢ばかり追えない。他チームに行くことを考えないわけではなかったが、会社に残って正社員として仕事を続けることにした。半導体や携帯電話の部品をメーカーに営業する仕事も嫌いではなかった。サッカーをやらない分、家族との時間も増えた。サッカーに対する未練は不思議なほどなかった。もう次の人生に切り替えるときだと思えた。
一方の中村はイビチャ・オシム監督、岡田武史監督のもとで日本代表としてもキャリアを積み上げ、その知名度はハネ上がっていた。
うらやむ気持ちなどない。自分は自分なりにやったと心から言えたからだ。
2人の運命が再び交差するとはこのとき夢にも思わなかった。