2022年3月29日、埼玉スタジアムでベトナムと引き分けた日本代表がワールドカップのアジア予選を戦い抜きました。僕自身、5回目となる最終予選の取材でしたが、コロナ禍の影響は大きく悔いが残る取材になってしまいました。
最終戦のベトナム戦で後半から出場した伊東純也はMPVの活躍でした。
僕が日本代表を取材するようになった2004年以降、アジア最終予選がある日は日本の試合以外も含めて、必ず現場で立ち会ってきました。それが今回の予選では海外渡航の難易度があがったために日本のホーム戦しかカバーすることができなかったのです。最終予選をモニター越しに観戦したのは1997年11月16日のジョホールバル以来でした。
118分に及ぶ死闘。センターサークル手前でボールをキープした中田英寿がドリブルで攻め上がり、ペナルティエリアの外から左足を振り抜く。低い弾道のシュートがゴール左隅へ飛ぶ。ワンバウンド、ツーバウンド。この日、何度も日本に立ちはだかってきたイランのゴールキーパー、アハマド・レザ・アベドザデが飛ぶ。こぼれたボールに反応したのは日本の背番号14番でした。
「岡野オオオオ! 最後は岡野オオオッニッポンワールドカップウウウ」
思わず裏返った実況の声とともに馴染みのラーメン屋で居合わせた見知らぬオヤジさんと抱き合いながら、浪人生だった僕も叫んでいました。あの興奮を現地で味わいたくて、僕は「伝える」仕事を目指すようになったのです。
僕が次にその瞬間を目撃したのは2005年6月8日、タイのバンコクで無観客開催された北朝鮮との一戦でした。柳沢敦と大黒将志のゴールでドイツへの切符を手にした試合です。僕はその瞬間をイランのテヘランにあるアザディスタジアムで迎えました。古ぼけたジャイアントスクリーンが写す歓喜の瞬間をボーッと眺めていたのを覚えています。
決戦前のアザディスタジアムでは日本の試合が中継されていました。
僕はこの5日前にマナマでバーレーン対日本を取材していたのですが、多くの同業者たちが決戦となる北朝鮮戦のためにバンコクへ飛ぶのを見送ってからテヘランへ向かいました。
このときの最終予選は4チームで争われていて、6月の2連戦を前に3試合を消化していた日本の戦績は2勝1敗でした。その試合内容も決して順調だったとは言えず、6月シリーズでつまずくと8月にホームで迎えるイラン戦がビッグマッチになる可能性がありました。そうなるとイラン代表の写真のニーズが高まります。今ほど世界中の写真が瞬時に手に入る時代ではなかったので、まだ駆け出しだった僕はあえて裏の試合に行くことにしたのです。
そんな目論見は見事に破られることになってしまったのですが、そのあとバーレーンを破ったイランが本大会への出場を決めた瞬間には立ち会えました。当時はまだ女人禁制だったイランで8万人の男が熱狂した現場はカオスそのもの。フォトグラファー人生で最大の興奮を味わうことになりました。
試合終了のホイッスルとともにピッチになだれ込んだ報道陣に囲まれるアリ・ダエイ。
日本の歓喜の瞬間に初めて立ち会ったのは、2009年6月6日。ウズベキスタンのタシケントにあるパフコタールスタジアムでした。前半8分。中村憲剛の裏を狙ったパスに反応した岡崎慎司が自らのシュートのこぼれたところを頭で押し込み先制。この1点を守りきった日本は南アフリカへの切符を手にしました。
このとき僕はバックスタンド側のゴール裏に陣取っていたのですが、なぜこのポジションを選んだのかハッキリとは覚えていません。今では、いわゆる大一番でゴールを決めた選手がベンチに向かって走り出すのが定番となっていますが、この頃は必ずしもそうではありませんでした。
僕の記憶によれば、最初にベンチに飛び込んだのは、南アフリカ大会の初戦でカメルーンから先制ゴールを奪った本田圭佑でした。余談ですが、国歌斉唱で選手たちが肩を組むようになったのも、カメルーン戦からでした。チームが団結して本大会に臨む決意のようのものを感じました。
決勝ゴールを決めた岡崎慎司を祝福する長谷部誠と大久保嘉人。
ウズベキスタン戦に話を戻しますと、決勝ゴールのシーンでは中村からのパスと岡崎の走り込みを見抜くことができず、僕はこの瞬間を撮り逃しています。そして、喜びもメインスタンド側になってしまったので、満足のいく写真を撮ることができませんでした。選手と同じようにフォトグラファーでも大一番で求められるのは冷静な判断と確かな技術です。このときの僕には何もかもが圧倒的に足りていなかったのだと痛感しました。
続く
2022年4月公開