熱血バスケットボール青年が縁あってアナリストの道へ
日本ハンドボールリーグ、ジークスター東京の荒川哲史はチームの裏方、アナリストとして活躍している。実はこの人、ハンドボール経験はまったくなく、バスケットボール畑を歩んできたというから驚きだ。そんなバスケ人間がなぜハンドボールの世界に足を踏み入れたのだろうか。
「いや、それは本当にいろいろなご縁があって…」
そう語る荒川のキャリアを振り返ると、確かに不思議な縁でつながっていることがよく分かる。
もともと荒川はバスケットボール少年だった。中学、高校時代は決して強いチームではなかったものの、高校までに「燃え尽きた」と感じるほどバスケットボールに青春を捧げた。大学は中央大に進学。中央大はハンドボールの強豪校だが、ここでハンドボールとの接点が生まれたわけでもない。
教員を志望していたこともあり、大学時代は母校のバスケ部で後輩たちの指導に励んだ。週に5、6回は高校の部活動に顔を出し、試合にも同行したというから、学業よりもバスケの指導がメインの学生生活だったと言えるだろう。
そして大学4年生のとき、その後のキャリアを左右する経験に恵まれる。日本バスケットボール協会(JBA)のインターンシップに応募し、採用されたのだ。
「インターンシップの募集要件は『分析ができる人』。思い切って応募して、味の素ナショナルトレーニングセンター(NTC)で開かれた説明会に参加しました。そうしたら私以外はみんな大学の体育会でアシスタントコーチをしてます、みたいな人ばかり。うわっ、これはダメだなと思ったんです」
まわりはみんなバリバリの体育会。アシスタントコーチの連中は、きっと高校時代はプレーヤーとしてもかなりならしたことだろう。荒川が無理と思うのも当然だったが、まさに縁あって採用、JBAでインターンシップを経験することになった。
荒川は分析作業の手伝いをすることになった。専門スタッフのサポートをしながら、国際試合における他国の分析を任され、3Pシュートの成功率を表にまとめたり、この選手はドライブがうまいとレポートをまとめたりもした。
「朝9時から夜の10時、11時までNTCに入り浸って本当に楽しかったです。インターンシップが終わったあとも声をかけてもらって、JBAでアルバイトをさせてもらいました。事務的な仕事をしたり、全国コーチングクリニックに行ってその模様を撮影したりしました。ここでみなさんと仲良くなれたのが一つのご縁となりました」
教員生活に1年でお別れ、アナリストとしての道を歩む
気がつけば大学卒業の時期が迫っていた。荒川はインターンシップを経験する時期に既に教員として就職が決まっていた。赴任先は北海道・函館の女子校。担当科目は地理、歴史、公民。社会の先生である。大学を卒業すると荒川は新天地、函館に旅立ち、社会科の教師とバスケットボールの顧問として教員生活を送り始めた。
ところが――。
新米教師として半年ほどが過ぎた秋、JBAでお世話になった人物から函館に連絡が入った。「Bリーグのチームがアナリストを探しているんだけど、どう?」。思わぬ話に驚き、どうしようかと迷っていると、さらに「JBAのスタッフに空きが出そうなんだけど、そっちはどうかな?」と畳みかけられた。
気持ちはゆれた。
BリーグやJBAのスタッフはまたとない魅力的なオファーに思えた。一方で教員になってまだ1年もたってない。ここで辞めてしまうのは採用してくれた学校に対して不義理を働くことになる。荒川は悩みに悩んだ末、JBAに飛び込むことを決意した。2017年3月、学校は退職した。
「いや、校長にはすごく怒られました(笑)。期待をかけてもらっていたので当然だと思います。学校には申し訳なかったですし、すごく悩みましたけど、これはだれしもできる経験ではないという思いが一番にありました。もう一つ、声をかけてくれた末広朋也さんの存在があります。代表の全カテゴリーを見ていたJBAのアナリストです。素晴らしい方なので、末広さんのもとで働いてみたいという気持ちも決断を後押ししました」
末広氏は若くしてアナリストとなり、現在はBリーグの名古屋ダイヤモンドドルフィンズのアンダーカテゴリーのヘッドコーチを務め、東京五輪では3人制日本代表チームも支えた。荒川はインターンシップを通して、末広の働きぶりと人柄をあこがれの目で見ていたのだ。
こうして荒川は東京に舞い戻り、今度はインターンシップではなく、正式にJBAスタッフとして働くようになる。JBAでの呼び名はテクニカルスタッフ。仕事の中身は現在のジークスター東京につながるビデオコーディネーターだ。
そして新任早々、偶然のタイミングで大役が回ってくる。荒川のアナリストとしてのキャリアが慌ただしく始まった。
2022年2月公開