フリーランス1年目は実に実りの多い年でした。3月のヨーロッパ遠征に加え、6月にはFIFAワールドカップドイツ大会を現地で取材することもできて、それ以外でも多くの国へ行くことができたのです。世間知らずで無知な僕は「イージーモードに突入したかも!」と浮かれていたのですが、人生はそんなに甘いものではありませんでした。
フリーランスになるにあたり考えたのは収入の安定でした。そこでリスクを考えて、主な収入源は3つの媒体に分けることにしました。ここでは助さん、格さん、ご隠居と名付けましょう。この3誌のバランスは僕の取材スタンスにとって最高だったのですが、フリーになって最初に訪れたエジプトで滞在しているとき、助さんが休刊するという情報を耳にしました。
「まじか、、無念、、、」
エジプトでの一コマ。このときはまだ余裕がありました
そして、ドイツへ旅立つ少し前に角さんと打ち合わせをしているとき、別れ際に角さんもワールドカップを最後に休刊すると聞かされました。
「えーー!? 格さんもですか??」
ドイツでの一コマ。このときの気持ちを写真で表すとこんな感じです
さすがにショックが大きかったです。なぜなら僕がフリーになろうと考え始めるチャンスを与えてくれたのが他ならぬ角さんだったからです。それでも僕にはまだご隠居が残っています。ご隠居はまだ経験の少ない僕に目をかけてくださり、多くの機会を与えてくれていました。そう、僕にはまだご隠居がいるはないか!! そう決意を新たに取材に邁進することにしました。
しかし、その安寧は長くは続きませんでした。そのときは2006年10月、助さんショックは突然やってきました。ご隠居のお仕事で台湾にアマチュア野球の取材に行っていたときのことです。撮影を終えた僕は同行していた編集者さんと食事をしていました。いい感じで酔いも回ってきたところで、編集さんが打ち明けたのです。
「実はうちも年内に休刊することになりまして、、」
台湾での一コマ。9回裏に三振で2アウトになったときのような気持ちでした
固まりました。このときはさすがに固まりました。酔いもすっ飛んでいきました。もしものことを考えてリスク分散をしていたにも関わらず、その「もしも」が1年で同時にやってくるとは、さすがの黄門さまも考えていなかったことでしょう。時代の流れと言ってしまえばそれまでですが、僕は少し前まで浮かれていた無知な自分を恥じるとともに、僕の胸の中はどす黒い不安というなの雲で覆い尽くされることになりました。
しかし、そう悪いことばかりがいつまでも続くわけではありません。捨てられた訳ではないですが、捨てる神あれば拾う神ありの言葉の通り、そんな僕に声をかけてくれる媒体があったのです。そして、このとき僕には一筋の希望の光が見えていました。
それは2007年6月、カナダで開催されたU-20ワールドカップです。この大会に出場するチームには槙野智章選手や香川真司選手、内田篤人さんなど、のちに日本サッカーを大いに盛り上げる選手たちがいました。
実は2006年の秋、台湾にいく少し前にインドで開催されたU-19アジアカップを取材していたのです。アンダーカテゴリーの予選を海外で取材したのはこのときが最初で最後です。そこで躍動する彼らの姿をみて、採算は合わないかも知れないけれど、カナダの本大会も取材しようと心に決めていました。激動の2006年を乗り越えられたのは、このときの想いがあったからだと今でも思います。
U-19アジアカップでの一コマ。彼らの存在だけが当時の僕の心の支えでした
前置きが長くなりましたが、こうして僕は人生で初めてアメリカ大陸へ向かうことになったのでした。
U-20ワールドカップは20歳以下のワールドカップで、日本は1999年のナイジェリア大会で黄金世代が躍動して準優勝をしています。今回は広大なカナダの6都市での開催が決まっていました。日本はグループFでスコットランド、コスタリカ、ナイジェリアと同組になり、開催地はカナダの西海岸、ブリティッシュコロンビア州の州都ビクトリアでした。
今回の遠征で同行することになった先輩カメラマンと打ち合わせをしていると、バンクーバーに留学経験があった先輩によると、ビクトリアはバンクーバーからでもシアトルからでもフェリーでいけることを教えてくれました。
そして、2007年は「平成の怪物」と呼ばれた松坂大輔さんが西武ライオンズからレッドソックスに移籍した年でもあります。先輩がレッドソックスの日程を調べてくれたのですが、なんとU-20ワールドカップ開幕の直前にイチローさんが所属するマリナーズとシアトルで対戦することが決まっていたのです。
こ、これは行くしかない! まず目指すはシアトルだ!! 待ってろよ! ICHIRO! DAISUKE!!
つづくッ
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2022年12月公開