2021年11月2日、後楽園ホール。オール4回戦興行に訪れた観客は少なく、コロナ対策で声出しの応援が禁止とあって、会場は静けさに包まれていた。第6試合の江口道明と川上拳汰のミニマム級4回戦は、川上優位のまま後半戦に突入していった。
川上の圧力と手数に押され気味の江口は2回、なかなかいい左ボディを川上の腹に突き刺した。客席からたまらず「江口、まだまだ!」の声。しかしその励ましはリングまで届かない。江口はいいパンチを決めても、それを続けることができなかった。
この試合、江口の家族、友人が10人ほど来場していた。ボクシングをすることに反対だった母親、そして父親が姿を見せた。母親が気を利かせ、高校で江口の担任を3年間務めた先生に声をかけた。中学、高校時代の友人も江口からチケットを買って足を運んでくれた。
試合会場の入り口でばったり会った高校時代の担任(確かパソコン部の顧問だ!)は懐かしそうに目を細めてこう言った。
「お前がプロボクサーになったなんで信じられないよ」
応援してくれる人の多くがそう感じていた。それほど学生時代の江口のイメージとボクシングはかけ離れていた。あの江口がプロボクサーになった。そこには相当の決意と努力があったに違いない。だったら家族として、友人として、チャレンジしている江口を応援しようじゃないか。そんな周囲の思いに、江口はぜひとも応えたかった。
3ラウンド、江口の右アッパーが決まる。川上も少し疲れてきたか。しかし試合の流れはなかなか江口のほうに傾かない。3回を終え、赤コーナーに戻ると、会長の真部からこう言われた。
「ポイント、負けてるぞ」
必死に戦っている江口にポイントの計算などできるはずがない。これだけがんばっているのに自分は負けている? 我が耳を一瞬疑いながら、すぐに真部の言葉の意味を理解した。そうか、負けているのか。だったら倒しにいくしかないじゃないか!
ゴングと同時に飛び出した江口は思いきり左フックを振っていく。しかし力を込めて打ったパンチは空を切り、スタミナは徐々に切れていった。うまくパンチがつながらず、バランスも崩れていく。防御が甘くなったところで川上の右を思い切り被弾した。やがて試合終了のゴングが鳴った。
採点が読み上げられ、江口は37-39、36-40の0-3判定で敗れた。川上の手が挙がると、江口は無意識のうちに拍手をして勝者をたたえた。リングを降りて控え室に引き返す敗者のホッとした表情が印象的だった。やり切ったという感覚があった。プレッシャーを乗り越えた解放感があった。
プロのリングで1試合戦い抜いたという事実は、「自分に自信がない」という江口に大きな自信を与えることになった。負けた悔しさは翌朝に沸いてきた。だが、悔しくはあっても自分を否定したくなるような気持ちはゼロだった。次こそは勝つ。悔しさは活力に満ちたプラスの感情だった。
この1年、江口はスーパーでアルバイトをしながらボクシングに励んできた。大学を卒業したら一人暮らしをして自立すること。それは卒業前からの両親との約束だった。江口は学生時代から働いているスーパーでバイトを続け、その収入を日々の生活費と公務員試験の通信制学校の学費に当てた。「正直ギリギリです」。そう語る江口の表情は、言葉とは裏腹に実にうれしそうだ。
デビュー戦をへて、江口のボクシングへの思いはますます高まっている。
「映像を見返していろいろなところを反省しています。セコンドの声も聞こえなかったし、パンチも大振りになってしまいました。でも、試合をやったからこそ課題が見えて、『次はこうしよう』とか『こういう動きをしてみよう』とか、考えて練習ができるようになりました。もちろん体作りも続けていきます。やっぱりパワー負けしたので。やることはいくらでもありますね」
江口のデビュー戦を目の当たりにした真部は、以前とは少し考え方が変わった。
「江口はたぶん、これからどんどん良くなっていくと思うんです。この前の試合を見て光が見えた気がしました。もう、試合の1ヶ月前と試合では別人のように違いましたから。コツコツやれる選手ですからね。どこまでいけるかは分からないですけど、コツコツ努力できる選手は最終的に強くなれますから」。
江口はひとまず、当面の目標を公務員試験合格に切り替える。練習を続けながら来春に予定される公務員試験を優先させ、試験に合格した後に再びプロのリングに上がろうとしている。
「日本ランキングとか、チャンピオンとか、具体的な目標は特にありません。とにかく自分が満足するところまでいきたい。初勝利を飾って満足するかもしれないし、勝ってさらに勝ちたい、上を目指したいと思うのかもしれません。自分の中でボクシングをまっとうしたい。そう思っています」。
江口道明、23歳。プロボクサーとして旅は始まったばかりだ。
2024年5月再公開
Red&Blue Red 江口道明 <終わり>