ボクシングの控え室ほど雑多な感情が入り乱れた空間はない。
その理由は何人もの選手で大部屋を使うからだ。試合が始まる前の選手がいて、試合を終えた選手がいる。勝者のすぐそばに敗者がいる。ルーキーがいればベテランもいる。緊張と興奮、不安と期待、そして歓喜と安堵と屈辱が狭い空間でひしめき合う。何とも言いようのない独特の雰囲気は、こうして作り出されている。
11月2日、後楽園ホール。ミニマム級4回戦でプロデビュー戦を迎える23歳の江口道明は控え室で出番を待っていた。後ろから2番目の第6試合が江口に与えられたファイトである。ひょっとしたら自分はこれから始まる試合で死んでしまうのではないか。そんな尋常ではない精神状態にありながら、なぜか控え室の様子を鮮明に覚えている。
後楽園ホール4階の控え室に入ると、江口の席に既にグローブが置いてあった。4回戦のグローブは新品ではない。簡単にクリーニングしながら使い回すので、少しばかりくたびれている。所属ジムの会長、真部豊が置いてあった赤いグローブをおもむろに手にした。そして慣れた手つきでグローブをいじると、江口の方を向いて笑みを浮かべた。
「江口、これ、右のグローブ薄いよ。ラッキーだよ」
グローブは使い込めば形が変わる。だからナックルパートが薄くなることもある。ナックルパートが薄ければパンチはよく効くと言われる。だから江口、お前の右ストレートは効くんだ。有利な材料を見つけたんだよと――。
会長の真部豊は元日本ジュニア・フェザー級王者の53歳。グローブが薄いと感じたのは事実だ。でも、ちょっとくらい薄いからといって、それが試合で有利に働くのか、働かないのかはよく知っている。教え子を少しでもいい気分でリングに上がらせたい。そんな思いがグローブの話になったのだ。
江口も試合前の周囲の気遣いをはっきりと感じていた。
「試合前の控え室では、会長とジムの先輩の武藤準さんが冗談を言ったりして僕の緊張をほぐそうとしてくれました。『お前、メキシコのだれだれってチャンピオンに似てるな』とか。でも一番印象に残っているのは試合直前のことです」
日本ボクシングコミッションの職員が入場の準備に入るように知らせに来る。グローブをつけて、準備万端の江口が立ち上がる。控え室からリングに向かう廊下に出たところで、真部が江口のほうを振り向いた。
「会長がいきなり真剣な表情になって、本当に今まで見たことのないような真剣な表情で言ったんです。『江口、勝つぞ』って。僕の顔を正面から見て、10回くらい同じようなことを言ってくれました。それまでけがしたらどうしようとか、不安でいっぱいでした。それが会長の言葉で一気に吹っ切れました」
控え室を出て、廊下を歩き、狭い階段を使ってリングのある5階に上がる。客席から見えない袖口で前の試合が終わるのを待つはずだった。ところが移動している間に一つ前の第5試合、女子の4回戦が唐突に終わった。1ラウンドTKOだったのだ。
「前の試合が1ラウンドで終わったのは分かりました。ああ、もうくるのか。そんな気持ちでした」
19時26分、リングアナウンサーの声が後楽園ホールに響いた。
「続いて第6試合を行います。選手入場!」
チーム江口は真部を先頭に入場。オール4回戦の興行だけに観客はまばらだ。リングインした江口は少し動いてリングの大きさを確認し、青いTシャツを真部会長に脱がしてもらう。続いてリングアナウンサーから激励賞。プレッシャーに負けまいと、右と左のグローブを胸の前でバンバンとぶつけて気合いを入れた。自らの名前が高らかにコールされると、右グローブを顔の横にスッと上げてそれに応えた。
19時29分、デビュー同士の激突。江口と川上拳汰の試合が始まった。
江口はガードをしっかり意識してジャブで丁寧に相手を崩していこうと試みた。しかしスタートから重心を落として前に出る19歳、川上のプレッシャーを受けて押され気味だ。本当は試合開始と同時にガツンと一発いきたかった。それは真部が立てた作戦だった。
「試合が始まったら先に一発打て、すぐに打てと言っていたんです。要するに相手に対して『オレはガンガン行くんだぞ』という姿勢を見せたかった。相手の選手は小学生のころから石川ジムで練習していると聞いていました。だからけっこうイケイケなのかなと。だからこそ、最初にガツンといきたかったんですけどね」
江口は最初の一発を撃ち込むことができなかった。それでも相手のパンチを懸命にブロックし、ジャブを突破口にペースを引き寄せようとした。
「ジャブ、ジャブ」、「もう少し下」、「振りを小さく!」。
真部の声が静かな会場に響く。アドバイスは短く、適切だ。しかし、江口はなかなかその通りにはできない。ジャブは悪くない。だが、右ストレートがどうしても大振りになってしまう。川上の体の圧力に押され、後手に回ってしまうのも歯がゆい。
1ラウンド終了。真部は赤コーナーに戻ってきた江口を迎えた。スツールに座る江口の正面に膝立ちし、ワセリンを塗って、次のラウンドに何をすべきかを簡潔に伝えた。1ラウンドは取られた。でも、真部は心の中でホッともしていた。
「正直に言うと1ラウンドもたない可能性もあると思っていたんです。ワンパンチでやられてしまうかもしれない。プロとしての試合はお見せできないかもしれない。そう心配していました。だから1ラウンドが終わって『よくやったぞ』と。とにかく自信を持って2ラウンドに入ってほしい。だから『大丈夫、全然OKだよ』と。そう言って送り出しました」
この子がプロテストを受けるのか……。
真部がそう思ったのは今から2年ほど前の話だった。
2024年5月再公開