“写心家”山口裕朗がゆる~く山を歩く!
47歳、中年写真家の山口裕朗と申します。初めてお目にかかりますので、まずは自己紹介をさせてください。
山口裕朗と書いて、ヤマグチ ヒロアキと読みます。
様々な対象を撮影していますが、ボクシングマニアや関係者の方は、ボクシングの写真を撮影している元プロボクサーと認知してくれているのかもしれません。
ボクシングの取材を通して知己を得たSPOALの皆様と話している時に、「グッチ、山もスポーツだよ。山のことで何か書いてみなよ」と声をかけていただいたのがきっかけで、単純な私はすっかりその気になったと言うわけです。
ライフワークとして、狩猟・マタギといった撮影を13年ほど前にはじめました。
高い山の頂を目指すわけではなく、森の中を熊や鹿や猪といった獲物を探しながら猟師さんと一緒に歩き、その取材は今も続いています。
森歩きのお話も追々記すとして、まずは、この数年で愛好者が急増している山登りと写真撮影のことを綴っていけば、ビュアー数も増えるのではないかとあざとく考え、まずは森より登山関係で攻めていこうと思います。それでは初めての登山の話から――。
ヒザがズタズタになった兄との北八ヶ岳縦走
初めて高い山を登ったのは11年前、2010年のこと。
山口家のルーツは長野県にあり、毎夏恒例の祖父母の墓参りに詣でた時、「ロープウェイを使わず北横岳から蓼科山まで縦走してみないか?」と実の兄に声をかけられたのがきっかけでした。
振り返れば、いつも見上げている八ヶ岳の山々に登った事はないし、30代半ばになったものの、「そんなに衰えてないじゃろ。」と確認したい気持ちもあり、兄の誘いを軽い気持ちで受けました。多少は山を歩くようになった今になってみると、初めての登山にしてはハードな計画に乗っかってしまったものだと思います。
夜明け前の薄暗い森の急登から北横岳目指してスタート。
歩き方や休み方も栄養補給のタイミングも、何もわからぬまま、元アスリートの体力に任せてグイグイと登り、北横岳から大岳、双子山から大河原峠まで順調にフンフンと鼻歌混じりに山歩きを楽しみ、最後のピーク、蓼科山に登っているあたりから膝の異変に気がつきます。
鼻歌まじりのフンフンは、ひとみ婆さんよろしくファンファンとなり、山頂に至る頃にはフィーフィー言う余裕もないほど膝が痛くなってしまいました。膝イズオーバ~、泣くな男だろぉ…。
敬愛するプロレスラー、両膝に人工関節を入れた武藤敬司の膝の痛みはどれほどだったか…。霧中を夢中に歩きながらそんなことを考え、辿り着いた山頂は霧で真っ白。眺望というご褒美なしの苦役登山…。
下山を開始しますが、私より4つ上の兄はぴんぴんしているのがしゃくにさわります。
「おおっ!こんなところにかわいいキノコがあるぞ」
などと言って、私のファンファンの気を紛らわそうと、生まれてこのかた30数年、一度も見せたことのない兄の優しい気遣い。
子供の頃に、細い壁の上を歩かされて転落した時の膝の痛み。無理矢理探検させられたドブ川の強烈な匂い、幼馴染のリョウくんと私は兄への数々の恨みを忘れません。「こんな程度の優しい気遣いなんかで相殺できないんだかんな!」と兄への恨み言をブツブツ心中呟き、膝の痛みを紛らわせ、薄暗くなり始めた頃になんとか下山したのです。
その夜はひたすらアイシングをするはめになるという痛いデビューでした。
ギリギリの状態で歩を進めようとする体験は嫌いではありませんでしたが、このときはまだ、自ら計画を立ててまた山登りに行こうとは考えていませんでした。
武藤敬司の苦しみのわずか何十分の一ほどが分かった気がした北八ヶ岳縦走の翌2011年に一つの転機がありました。
3月に起きた東日本大震災です。
東北地方の沿岸部では、家・街が津波に流され、たくさんの命が海に飲み込まれていきました。
雨雲レーダーで雨の予報はできても雨は止められないし、地震がいつどこに来るのかも的確に予想できません。人類は、地球を破壊出来るほどのエネルギーを扱えるようになったのかもしれませんが、それは、地球をコントロールできるようになったわけではなく、慢心していたのではないでしょうか…。
秋田のマタギと呼ばれる狩猟者達は、事故なく獲物を授かることが出来る様にと、山神様に祈ります。山に入れば、人間という動物のちっぽけさを嫌でも突きつけられるからこそ、自然に対しての畏敬の念を持っているのです。
私には当時、1歳になろうとする娘がいました。
いざという時に、瓦礫の中から娘の愛するぽっぽちゃんやメルちゃんの人形を救出する姿を見せられるオヤジでなきゃいかん!
滝のような汗をかくことを忘れた身体を鍛え直さないと、ぽっぽちゃんとメルちゃんとアンパンマンのクッションを救い出せない!
今私が暮らしている大都会の中で、唯一確実な大自然をもつこの肉体。
肉体をコントロールすることは出来なくとも、ある程度意識に近いところに導くことはできるかもしれない。
何かはじめねば…。
それからしばらく経って、ウェブデザイナーの横田茂氏(以下、シゲル氏)と下北沢の酒場で酒を酌み交わしていた時のこと。シゲル氏は仕事柄デスクワークが多く、私より数年早く生まれていることもあってか、体力の衰えに抗おうとどこかで思っていたようで、2人で山に登ってみようかという話になったのです。
シゲル氏との出会いは、ボクシングを辞めた後に通った夜間の写真学校生だった頃です。生活費を稼ぐためにやっていた窓ガラス清掃の会社の先輩がシゲル氏でした。
4年間一緒に働いていましたが、彼は趣味だったウェブ制作の道に進むことを決めて、飲食系の代理店に転職していきました。
お互いが違う道を歩み出していたのですが、私たちの関係は続き、しばしば下北沢の酒場でグラスを合わせていました。
山ではどんなアクシデントが起きるかわからないとなると、気心が知れている人が良いので、シゲル氏と意気投合した時は、「これだっ」と膝を打ちました。
こうして私は自らの意思で山登りをはじめる計画を立てることになったのです。
2021年9月公開