この日も朝から撮影に臨みました。それまで何度もオリンピックを経験している先輩フォトグラファーでも「オリンピックの500は今でも緊張するよ」と言います。なぜなら、高速で滑る選手を正確に追い続けるのは簡単なことではなく、オートフォーカスが一度でも狂ってしまうとリカバーはほぼ不可能です。そして、一度しかないシャッターチャンスで、「金メダル第1号」の可能性という期待感が、僕のガラスメンタルを引っ掻く音が聞こえてきた気がしました。
この日、僕が陣取ったのは第4コーナーの出口付近でした。この位置を選んだ理由は様々なシーンが抑えられるからです。スタート前の表情やスタート直後の背中、第2コーナーから第3コーナーにかけてはバックストレートを滑走する瞬間をスローシャッターで、第3コーナーではこちらに向かってくる瞬間を、そして、第4コーナーでは目の前を通過するところをアップで狙う。これが僕が考えた撮影プランでした。第3コーナーは絶対に抑えなければならないポイントで、第4コーナーはハマれば最高にカッコいい瞬間を狙えますが、超高速で駆け抜ける選手をアップで狙い続けるのはかなり難易度が高いのでボーナス的に考えるようにしていました。
大会第一号の金メダルがかかる種目です。やはり、失敗は許されません。この種目は一人が2回滑った合計タイムを競います。そして、日本人選手は4名出場して、僕がもっとも注目していた加藤条治は、日本人として最後の滑走でした。朝から彼が滑走する瞬間をイメージしながら何度もシャッターを切り続けたおかげで、技術的にもイメージ的にも完璧な準備ができたと思います。
そして、いよいよ加藤が登場しました。ここで急に指が硬くなったのを覚えています。右手首をブンブンと振り、シャッターを押す人差し指を何度か握り直しました。そんなことをしていると場内アナウンスがかかります。
「Go to the start」
加藤がスタート位置に付きます。カッカッカッ! スタートで氷を蹴る右足のエッジをリンクに食い込ませるように蹴ります。
「Ready」
静まり返る会場。身体をググっと丸め込み、全身の力を右足に集中させるような姿勢に入ります。
「パァンッ!」
鳴り響く電子ピストルの合図で始まる500mの勝負は弾けるようなスタートダッシュがもっとも重要視されています。先ほどの静寂が嘘のように破られ一気に湧く観客席。スケートの本場カナダのレース会場の雰囲気は、このオリンピックで味わった最高の瞬間のひとつでした。
スタートする瞬間を抑えた僕は向こう正面のスローシャッター撮影に備えて、ファインダーで被写体を追いかけながら、カメラの2つのダイヤルを素早く、正確に回します。人差し指で右に5回、親指で左に5回。露出の設定を変えるためですが、1回でもズレると失敗に繋がります。この瞬間のために朝から何度も練習してきた工程でした。無事にダイヤルを回し終えた僕は3回ほどシャッターをきって、すぐにダイヤルをさきほどとは反対の方向に同じ回数だけ回します。ここまでは計画通りの撮影ができました。そして、絶対に抑えなければいけない第3コーナーに加藤が差し掛かりました。加藤の滑るリズムに合わせてシャッターを切ろうとしたその瞬間、、、、。突然、シャッターが落ちなくなりました。
「え? え!? えーーーーー!!!」
混乱する僕。そんな僕の目の前を高速で滑り抜ける加藤。カメラの故障かと思いましたが、液晶ディスプレイには「CARD FULL」の文字が点滅していました。原因は朝から撮り続けたことによるメモリーカードの容量不足でした。これまでカードの容量を越えるほどシャッターを切ることがなかった僕にとっては想定外の出来事でした。経験不足と言ってしまえばそれまでなのですが、人生最大のミスです。
実はこの日、僕が計画していたのは第一滑走で抑えなければならないシーンを抑えて、第二滑走の加藤だけは人とは違う構図で勝負しようという目論見がありました。それは客席に登って、最終コーナーを駆け抜ける瞬間を広角レンズで盛り上がる観客席を入れ込んだ構図でした。もし加藤が金メダルを獲得すれば、誰も撮っていない構図の写真が求められると考えた結果でした。他の日本人選手の滑走は問題なく抑えることができていました。しかし、肝心の加藤は抑えカットがありません。ギリギリまで悩んだ僕は当初のプラン通りに撮影することにして、結果的に想像通りの写真を撮ることができました。しかし、結果は加藤が3位、長島が2位になったのです。自分が思い描いていた瞬間が撮れても、結果が異なれば誌面での扱いも変わってきます。落胆した僕はここで集中の糸が切れてしまいました。その愚かさを知ったのはまたもメディアセンターに戻ったときでした。
JMPAの先輩が、長島の銀メダル獲得が決まった瞬間を切り取っていたのです。最終レースのタイムがでて、銀メダルが確定した長島はリンクに仰向けに倒れながら両手を突き上げて喜びを表現していました。僕がいた位置からは反対側での出来事なので、はじめから僕には撮るチャンスがありませんでしたが、自分が考えたプランが尽く裏目にでたことを知って、自らの力量不足を再び痛感させられたのでした。
続く
2012年、オランダのヘーレンフェーンで開催された距離別世界選手権での加藤条治
2024年1月公開