名門・日大相撲部はチャンピオンで胃袋を満たした
東京・阿佐ヶ谷の名店『チャンピオン』のマスター、チョウさんこと山本晁重朗さんは元プロボクサーという異色の経歴の持ち主。その縁でボクシング関係者がたくさん訪れ、店内にはいつもボクシングの匂いがしていたことはこれまでに書いてきた。
『チャンピオン』とボクシングは切っても切れない関係であるが、だからといって他のスポーツとまったく無縁だったわけではない。ボクシング以外にも店とは浅からぬ縁を持つスポーツがあった。相撲である。
力士でも味噌汁の一気飲みは無理!=提供写真
「近所に日大相撲部の道場がありましてね。当たり前ですけど彼らはよく食べる。だから日大の相撲部員がきたときはパッとご飯のガスをつけたものです。そういえばオムライス23個という注文が入ったこともありました。どうやら6人くらいで食べたみたいですけどね」
大学相撲界の名門中の名門、日大相撲部。“黄金の左”で昭和の名横綱になった輪島大士を筆頭に数多くの力士を角界に送り込んできた。相撲取りにとって食べることは仕事である。のちに国技館を沸かせることになる力士たちは学生時代、大いに『チャンピオン』のお世話になっていた。
店を訪れた小柄な部員に「あなた、マネジャーさん?」と話しかけたら、「違います。僕はレギュラーです!」と返された。のちに小兵ながら小結までいった“技のデパート”こと舞の海だった。
いつも納豆チャーハンしか頼まない部員がいた。ある日、複数の部員を連れて店にきた監督の奥さんが「なんでも食べていいのよ」と声をかけると、他の部員は次々に特大のステーキを注目したのに、この部員だけは頑として納豆チャーハンを頼むではないか。監督の奥さんはそれを見て、「だから粘り強いのね」。思わず初子さんが「奥さん、名言です!」と合いの手。こちらも最高位は小結、“ロボコップ”の愛称で人気を博すのちの高見盛だった。
店の裏側はこんな感じ。かつて隣にはスタジオがあった=提供写真
相撲にまつわるとっておきのエピソードは“異種格闘技戦”だろう。ある夜、少しお酒の入った長身の相撲取りが店に来た。「マスターはプロボクサーだったんだってね。相撲とボクシングとどっちが強いか勝負しよう」。十両の睦の海という力士だった。
ヘビー級とフライ級。とても勝負にはならないと断ったのだが、あとから来た関脇の二子岳がレフェリーを買って出て、「マスターは、ボディはナックルで殴っていいけど顔面は平手打ち。睦の海は張り手と投げだけ。時間は無制限」とルールを決めた。二子岳に「やってみなよ」と言われて、思わず「じゃあ、やってみます」と答えてしまった。
午前零時すぎ、店の隣の駐車場で異種格闘技戦が始まった。チョウさんは軽快な動きで睦の海の突っ張りを交わし、顔面に平手打ちを、ボディにパンチを決めていく。快調に戦っていたのだが、そこが駐車場であることを忘れ、バックステップをしようとした瞬間に車にぶつかると形成は一気に逆転。睦の海につかまったチョウさんは5メートルもぶん投げられ、顔面から流血。睦の海がチョウさんに馬乗りになったところで、二子岳の「ストップ!」が入った。
どうやら睦の海は酔うと格闘技経験者に他流試合を申し込む悪いクセがあるらしい。それでも二子岳は「みんな断るのに、マスターは挑戦を受けたからすごい。しかもアクシデントがなかったら勝っていたかもしれなかった」と感心したという。
このときは何も言わずに帰った睦の海がその後、『チャンピオン』の常連客になったことも書き記しておこう。
夜も更けて『チャンピオン』に明かりが灯る
卓球部の女子高生にフットワークを指導
もう一つだけ紹介しよう。あるとき、厨房で料理を作るチョウさんの姿を熱心に観察している人物がいた。どこかの料理人? いや、違う。実はこの人物、近所の文化女子学園杉並高校で卓球部の指導をするコーチだった。狭い厨房でこれだけ素早く動き回るなんてただ者ではない。カウンターに隠れて足の動きは見えないのに、卓球のコーチはたくましく想像力を働かせ、気がつけばこう口にしていた。
「すいません、うちの卓球部に来て生徒たちにフットワークを教えていただけませんか?」。
頼むほうも頼むほうなら、引き受けるほうも引き受けるほうだ。チョウさんは学校まで出向き、40人ほどの女子部員にフットワークを指導。後日、チョウさんに教わった卓球部員が店を訪れ、『チャンピオン』は珍しく女子高生の黄色い声に包まれたという。
そういえば空手の道場の先生から「空手にはフックとアッパーがないんです。パンチを教えに来てくれませんか?」と頼まれたこともあった。試しに見学という名目で道場に行ってみると、「今度、パンチの指導をしてくれることになりました山本さんです」といきなり紹介されてしまい、しばらく週1回、空手道場でパンチの指導をしたこともあった。
空手道場の生徒たちは店に来ても場違いなほど規律を重んじた。「先生! オムライスをください!」、「私はビールをいただきます!」。あのね、店では先生じゃないって何度も言ってるでしょ…。
当時を振り返るチョウさんと初子さんは本当に楽しそうだ。
1964年に店を開いて43年、実にいろいろなことがあったのである―。
2007年の閉店当初、常連客は店の復活を望み、チョウさんと息子の寛朗さんはいい物件がないか熱心に探した。しかし『チャンピオン』のイメージにぴったりくる物件はそう見つかるものではなく、ファン待望の復活話は幻と消えた。
チョウさんは店を閉めてから数ヶ月後、近所の石橋ボクシングジムからトレーナーを依頼され、子どもからプロ選手まで幅広くボクシングを教えるようになった。さすがに今では教える機会はなくなったが、石橋ジム通いは現在も続いている。
妻の初子さんはかねて句集を出版するなど俳人として活躍しており、2017年には初のエッセイ集『あさがや千夜一夜』(朔出版)を上梓。俳句のみならず映画、ボクシングまで幅広く取り上げて新境地を切り開いた。
2代目の寛朗さんは現在、阿佐ヶ谷の2つお隣、中野にある『レンガ坂スペインバル siono(シオノ)』の厨房を任されている。実はこの店、『チャンピオン』のお客さんだった人物がオーナーを務めており、その縁で寛朗さんに白羽の矢が立った。sionoに顔を出せば、『チャンピオン』の元常連が楽しそうにグラスを傾けている姿を見ることができるだろう。
sionoの前で左から初子さん、チョウさん、寛朗さん=2021年2月撮影
おわり
2021年3月公開
追記 本稿の主人公、山本晁重朗さんが2024年9月22日、胃がんのため都内の病院で亡くなりました。87歳でした。8月に病状を知りながら都合がつかず、再会が叶わなかったことが残念です。晁さん、ありがとうございました。