僕がイランを初めて訪ねたのは2005年のことでした。サッカーワールドカップの最終予選に挑むジーコジャパンの取材です。厳格なイスラム国家で知られるイランは日本人からすると未知の国で「危険じゃない? 大丈夫?」と心配されることもありました。しかし、この1ヶ月前に「はじめての海外取材記」の舞台となったバーレーンへの単独取材を経験していた僕は、今度のイラン遠征は多くの同業者がいることもあり余裕をもって迎えられました。
このときの予選で、イランは日本代表にとって最大のライバルと目されていました。アウェイで迎えるこの試合は最終予選の2試合目にして最大の山場といえる重要な一戦です。試合当時の朝、何気なくテレビに目をむけるとファンが熱狂するスタンドの様子が映し出されていました。最初は過去の試合映像を流しているのかと思ったのですが、画面の左上には「LIVE」の文字が。試合開始まで8時間はあるというのに会場となるアザディ・スタジアムにはすでに多くのファンが詰めかけていたのでした。
試合が予定されていた3月25日は金曜日でしたが、イスラム圏では金曜日が休日になるので朝から多くのファンが詰めかけたようです。普通なら開始の3時間前くらいにならないと開場しないのにまだ午前10時の時点でほぼ満員。しかも、当時、イランのスタジアムは女人禁制だったのでイカつい野郎が最終的には11万人も集まったのです。興奮が興奮を呼び生み出される熱狂の渦のようなものを感じたスタジアムでした。あれから多くの試合に足を運びましたが、未だにあの熱量を超える雰囲気には巡り会えていません。
実はこの試合の前日、僕の周りである事件が起きていました。試合前日におこなわれた公式練習の取材を終えてホテルに向かっている途中で、僕と行動を共にしていた先輩カメラマンが急にソワソワし始めました。なんと先ほど受け取って首からぶら下げていたADカードをどこかに落としてしまったようでした。思わず自分のカードを見返しましたが、確かにカードとストラップをつなぐ留め金が心もとない作りでした。運悪く留め金の隙間からカードだけ落ちてしまったのだと思います。しばらく探し回りましたが見つけることができず、肩を落としてホテルに戻ることにしました。我々取材者にとってADカードはもっとも重要なアイテムです。基本的に再発行はしてもらえませんし、100歩譲って日本ならば泣き倒しての奇跡もあるかも知れませんが、ここはイランです。ちょっと絶望的な展開でした。わざわざ日本から経費をかけてやってきたのに何も撮ることができない。同業者として想像しただけでも恐ろしくなる事態でした。いつもは何事にも動じることのない先輩でしたが、このときばかりは顔を青くしていたのが忘れられません。
その晩、僕たちの部屋の扉がノックされました。フリーランスの先輩たちが嬉しい知らせを運んできてくれたのです。なんと奇跡的にもADカードが発見されたのです。拾ったのは現地のメディア関係者で、彼は拾ったADを見せながら持ち主に心当たりがないかを日本メディアに聞いて回っていたそうです。それに気がついた先輩が知り合いのものだと名乗り出てくれたのですが「本人に直接渡したいから明朝ホテルまで取りにくるように伝えろ」と譲らなかったそうです。あまりの頑なさに「誘拐された!」と先輩の身を案じる方までいたそうです。翌朝、指定されたホテルに向かうと何事もなくADカードは返却されました。当初は何か見返りを要求されるのではないかと心配しましたが、直接の手渡しにこだわったのは確実に返却するための彼なりの配慮だったのかも知れません。
現場で最年少に近かった僕たちは現場の知り合いも多いわけではなかったこともあり、わずかな人にしか宿泊しているホテルのことを話していませんでした。そのような状況の中でホテルを探すのは大変だったと思います。当時はLINEやFacebookのようなSNSは普及していません。日本の携帯電話を海外で使う人も多くなく、短期滞在だとわざわざ現地の携帯電話を手配する人も多くありません。しかも、テヘランという慣れない土地での大一番を直前に控えたタイミングです。
フリーランスの人間は気心がしれた仲間と協力し合うことはあっても、全体で馴れ合うようなことはしません。しかし、アウェイの地で窮地に陥っていれば手を差し伸べてくれる。当時の僕はまだカメラマンとして独立していたわけではありませんでしたが、その様子を間近でみていて、その大変さが身にしみて分かっていたので、先輩たちの行動に素直に感動しました。そして、僕もその仲間に入りたいと心から思いました。思わぬトラブルに見舞われてしまいましたが、そう思うことができる経験を積めただけでもこの遠征は価値があるものだったと思います。
ちなみにADを落としてしまった先輩とは、その後も何度となく行動を共にしていますが、ADを入手するとすぐに留め金の部分をテープで補強するようになっています。その姿を見る度に僕はこのときのことを思い出し、僕は先輩にいつも言います。
「僕もテープもらっていいですか?」
2020年10月公開