試合の3週間前にインタビューをしたとき、八重樫はこう話していたものだった。
試合前の1ヵ月くらい前は1日が長く感じる。でも(試合3日前の)予備検診が終わったら、気が付いたらもう試合前の控え室にいる感じですね。そこのあたりの時間の感覚は分かっていますから─。
ムザラネとのベテラン対決のゴングが鳴る
その言葉通り、試合前の公式行事が始まると、運命の世界タイトルマッチはあっという間にやってきた。対する南アフリカのIBFフライ級王者、モルティ・ムザラネは37歳、八重樫は36歳。酸いも甘いもかみ分けたベテラン対決は、この日、用意されたトリプル世界タイトルマッチの中でも実力が拮抗し、とりわけ予想が難しいと見られていた。
カギは八重樫の出来にあった。
「蓋を開けてみないと分からないですけど、いい八重樫が出れば面白い勝負はしますよ。絶対に勝てるとは言えないですけど。厳しくて、つらくて、しんどい勝負にはなるでしょうね。そんな試合のほうが八重樫らしいですよね。そこは僕の土俵でもありますから」。
本人が語るように、八重樫が全盛期とはいかないまでも、それなりに力を発揮できれば、十分に勝機はあると思われた。
もちろんチャンピオンは強い。一定のテンポを崩さず、コツコツと攻めるタイプのムザラネを、八重樫は「まるでアフリカの長距離ランナーのよう」と表現した。淡々とペースを刻む姿は、まさにマラソンランナーを思わせた。
立ち上がり、八重樫の動きは悪くなかった。試合決定当初は絶不調が伝えられたのがうそのような動きだ。いたずらに打ち合ったりせず、持ち前のスピードを生かしながらムザラネのパンチを外し、1、2回をわずかながら優勢に進めた。
しっかり作り上げたのだ。フィジカルも、メンタルも。
「やっぱり世界戦で気持ちって圧倒的に必要な部分で、僕は心の部分で勝ってきたところもある。すごい気持ちが作れたのはロマゴン戦ですね。入場のとき、メンタルがめちゃくちゃいいなと思いました。今日はなんか違うなと」。
八重樫は2014年9月、当時の軽量級最強、無敗のローマン・ゴンサレスと対戦して敗れながらも、類まれなファイティングスピリッツで周囲の尊敬を集めた。今回も気持ちをつくるという点においては。ロマゴン戦に引けをとらなかった。
もちろん王者は黙っていない。ガードを固めたスタイルで八重樫にプレシャーをかけ、ジャブ、ワンツーで挑戦者を追い込んでいく。八重樫は4回、足を止めて打ち合いを試みるが、ムザラネもこれに対抗。5回も左右のフックを連打してムザラネを攻め立てたものの、なかなかペースを引き寄せることができない。
それでも八重樫は6回、右ボディで王者にダメージを与えたかに見えたシーンを作り、試合後にこう振り返っている。
「勝てるかも、とは思いました」
リングサイドで見ていても、この時点で勝敗の行方はまだまだ分からなかった。八重樫がここから得意の乱打戦に持ち込む可能性も大いにあるように思えた。
好スタートを切るも、後半に力尽きる
しかし、7回に入ると勝敗の天秤はグッと王者に傾いていく。アフリカの長距離走者がいよいよ本領を発揮し始めたのだ。ムザラネは7、8回とピッチを上げ、攻撃の軸をボディ攻めにシフトすると、挑戦者はみるみるペースダウンしていった。
ここから八重樫は不屈の精神で盛り返そうとしたが、チャンピオンの攻勢を跳ね返すことはできない。押し込まれ、パンチを食らい、よろけてしまう大ピンチ。辛うじてゴングに救われたが、あとで確認すると、大橋会長は何度かタオルを投げ込もうとしていた。横浜アリーナは徐々に静まっていった。
迎えた9回、ムザラネのテンポの速い攻撃が続く。2分すぎ、王者のワンツーが決まったところで、マリオ・ゴンサレス主審が八重樫を抱きしめた。
激闘王は立ったまま、試合終了を宣せられた。
八重樫が世界戦で敗れたのはこれが6度目。判定負けが2度、KO(TKO)負けが4度。立ったまま主審に救われたのはこれが初めてだった。
試合後、顔を腫らした八重樫は自らの敗戦を受け入れ、取り囲んだ多くの記者の質問に丁寧に答えた。これまで勝って泣き、負けて泣く姿を見せてきた男は、思いのほか冷静に敗北を受け入れているように見えた。
「後半、自分も落ちると思っていたし、正念場だとは分かっていたけど、その中で(8回に効かされたシーンは)見ている人は左ボディを食ったと思ったと思いますけど、その前に右一発、左目にもらって、やべーと思ってそっちに気がいっていたのか、左をもらいました。それが試合の展開のすべてだったのかなと」
攻め込まれ、なお攻め返し、最後は無念にも敗北のコールを聞いた。
実に八重樫東らしい敗戦だった。
激闘王も追いかけて 終
2020年5月掲載