福田はボクシングを観戦するだけでなく、実際にボクシングジムに通い、プロを目指したこともあった。多くの世界チャンピオンを輩出した名門、協栄ジムの門を叩いたのは高校生のときだ。両親に内緒でボクシングを始め、ほどなくしてバレたが、文句を言われながらもジムへは通った。ちなみにここでも「いいじゃないか」とボクシングをやることを全面的に認めてくれたのは香川照之だった。
「当時の協栄ジムには渡嘉敷勝男さん(世界王者)がいたり、丸尾忠さん(日本王者)、安里義光さん(日本王者)もいて、活気がありました。そのうち海外からボクサーを輸入するようになって、ヘルマン・トーレスとは何回かスパーリングをしました」(協栄ジムは2019年12月、日本プロボクシング協会に休会届を提出)。
メキシコ出身でのちのWBC世界ライト・フライ級王者、トーレスとスパーリングをしたというからたいしたものだが、福田が選手として大成することはなかった。「なんのテクニックもなく、強引にやっていただけなので」とは本人の弁。プロテストを受けることもなく、大学進学とともにジムから足は遠のいた。入学した獨協大のキャンパスは埼玉県の草加市にあり、当時、代々木にあった協栄ジムに通うのは無理があったのだ。
ボクシングの試合観戦、ビデオ鑑賞は相変わらず続け、一度は名門ジムでプロを目指してもみた。ボクシングというスポーツの深みにはまっていた福田は次にメディアという立場でボクシングに関わってみようと考えるようになった。
「当時、ボクシングマガジンにボクシング好きの芸能人が出るコーナーがあったんです。そこに俳優になったばかりの香川が出て、撮影とインタビューを私の家でやりました。それがきっかけで何か仕事をもらおうとマガジンの編集部に出かけたんです。香川は雑誌で連載を持ちたい、僕は編集部でアルバイトをさせてほしい、というお願いです」
ボクシング観戦に自信を持っていた2人は“秘密結社”DBC(藤政・ボクシング・カウンシル)で作成した世界のボクサー・ランキングを携え、当時の山本茂編集長を向こうに回し、「我々はこういうものを認めている!」と鼻息荒く訴えた。
世界的にそれほど有名とは言えない王者、プエルトリコのアントニオ・リベラを名誉チャンピオンに認定し、こちらはメジャー団体で世界王者になれなかったウィルフレド・バルガス(この人もプエルトリコだ)がいかに素晴らしいボクサーかを熱っぽく語った。話を聞いていた山本編集長はやがて苦笑いを浮かべながらこう言ったという。
「君たち、病気だね」
誉め言葉だった。こうして香川は「熱病的思考法」という連載を持つようになり、福田はアルバイトとして同誌編集部に入ることを許された。福田が大学4年生、香川が東大を卒業して俳優になった年の出来事だった。
編集部のアルバイトとしてスタートした福田はやがて簡単な試合レポートを書かせてもらえるようになった。海外ニュース、そしてアマチュアの全国大会も任されるようになった。カメラマンになりたい、という夢は胸の奥にしまってあったが、書くことだってもともと嫌いではない。「藤政」を手書きで書きまくっていたことを思い出してほしい。
編集者としては駆け出しながら、ボクシングの試合をこれでもかと見てきた経験は仕事でも大いに生きた。当時は知る由もなかったが、将来的にカメラマンの仕事をする上でも、現場での数々の試合観戦や香川とのめり込んだ“ビデオ合宿”は大きなアドバンテージになったのである。
「何度もビデオを見たのは役に立ったかもしれないですね。たとえば1984年のハイメ・ガルサ(WBCジュニア・フェザー級王者)がフアン“キッド”メサに番狂わせで1ラウンドKO負けした試合。あのメサの左フックは2人で100回くらいは見ています。すごいパンチが決まる瞬間を徹底的に目に焼き付けたのは、意味があったのかもしれません。昔のボクシング会場は野次が当たり前で、『ボディだ!』とか先を読んで野次を飛ばしていたのも、今思えば見る眼を養っていたのかもしれません」
客席のポジションを変えて観戦するなど、見るアングルをさまざまに変えてみたことも観察眼を養った。
「試合もただ見るだけではなく、選手の立場に立って見たり、全体を俯瞰して見たり、いろいろやってました。たとえばリングに近いところじゃなく、あえて後楽園ホールの一番上に行って見る。そうするとセコンドの動きとか、観客の様子とか、全体を見られていろいろ勉強になりました」
ボクシング好きが高じて、福田と香川はボクシングを、ボクサーを、知らぬ間に研究し尽くしていた。ノックアウトを生み出すパンチはどのような打ち出しで、どのような角度で急所をとらえているのか。あるいはパンチをもらう側は、どのような状態のときに決定的なパンチをもらっているのか。ノックダウンする選手はどのような倒れ方をするのか。思いがけないノックアウトが生まれたとき、観客はどんな反応を見せるのか……。
言うなれば福田の頭の中には、ボクシングで起こりうるあらゆるシーンがインプットされたと言えるかもしれない。しかも一方向の映像だけではない。テレビでよく映し出されるようなノーマルな映像に加え、攻撃側の視点、防御側の視点、さらには俯瞰のショットまで、あらゆるカットが網羅されていたのではないだろうか。
2001年、福田はラスベガスに旅立った。頭の中にはボクシングにまつわる膨大なイメージが蓄積されていた。
2020年1月掲載