ゲスト 福田直樹(カメラマン)
パネラー 近藤俊哉(SPOALカメラマン)
パネラー 高須力(SPOALカメラマン)
司会 渋谷淳(SPOAL編集者)
ボクシングで全米ナンバーワンのカメラマンに福田直樹はアメリカでゼロからカメラに挑んだ
渋谷 きょうはみなさんに「スポーツカメラマンの醍醐味」というテーマで自由にお話しいただければと思います。まず、最初に自己紹介がてら、どんな写真を撮ってきたのか簡単に教えてもらえますか?
福田 小学校のころからボクシングが大好きでした。祖父がカメラが大好きで、いらなくなった一眼レフをもらって撮っていて、そのうち雑誌を読んでボクシングとカメラマンが一致してきたんです。それでボクシングを撮りたいと思ったんですけど、日大芸術学部の写真学科に落ちて、別の大学に進んで、在学中からボクシングマガジンの編集部で編集とライターの仕事を始めまして、それを12、3年やっていたんです。
渋谷 では、写真の勉強をしたことはないわけですね?
福田 はい、でもどうしても写真が撮りたくて、アメリカに行けばそういうチャンスがあるかと思って、最初はライターとしてアメリカに行って写真を撮り始めたんです。2002、3年から撮り始めて、ライターとカメラマンの両方をやっていたんですけど、だんだん写真に移行していったという次第です。
高須 2002年だったらもうデジタルですね。
福田 2001年に渡米して最初はフィルムで、すぐにデジタルですね。
高須 キヤノンなら1Dですね。
福田 僕は最初はニコンで、D2くらいまでは粗かったですけどね。
高須 ニコンのD2は感度の問題で暗いところでの撮影が厳しかったですね。D3くらいからですかね、ニコンが良くなったのは。
福田 そうですね、D2は室内スポーツには向いていなかったですね。
近藤 最初からリングサイドに入れたんですか?
福田 最初はまったく入れなかったです。日本のメディアは相手にされず、世界タイトルマッチはほとんど(客席の)上ほうで、300ミリとか400ミリのレンズを無理して買いましたね。どこで撮影できるかって当日に分かるんですよ。受験の合格発表みたいにドキドキしながら会場に行って、上からだとどうしても編集の段階ではじかれてしいますから。やっぱり下からのほうが臨場感ありますからね。リングサイドは10人から12人しか入れないので。そこから実績を作って入れるようになりました。
高須 アメリカにも写協(日本写真記者協会)みたいのあるんですか?
リングサイドの3席を100人のカメラマンが狙う
福田 ないですけど、強いのが3つの通信社、AP、ロイター、ゲッティで、地元の新聞が1つか2つ、あと一番強いのはプロモーターとテレビ局のオフィシャルですね。それに選手のオフィシャルカメラマンが入ってくると9くらい埋まっちゃうんですよ。そうなると本当の大きい大会だと100人くらいカメラマンがきて残り3つの席を争うことになるんです。いつも大変でしたね。
渋谷 3つに入るのは至難の業でしょう。
福田 小さい興行だとリングサイドに入れるときもあって、そこで撮っていた写真が認められて、そのうちWBCのマウリシオ(現会長)とホセ(マウリシオの父で前会長)の目に留まって、ホセが元カメラマンだったらしいんですね。それと同時に(大きな試合がよく開催される)MGMの広報部長に気に入ってもらって、デラホーヤvs.マヨルガの試合でリングサイドに入って、そのときの写真をWBC総会のポスターに使ってもらったのが最初ですね。
渋谷 当時のスーパースター、オスカー・デラホーヤがニカラグアのバッドボーイ、リカルド・マヨルガを6回TKOした試合ですね。あれはMGMでした。
福田 そこからマウリシオたちがバックアップしてくれているうちに、今度はリング誌(アメリカの老舗ボクシング誌)の目に留まって、そのうちに新しくなったリングの編集長、ダグ・フィッシャーからメインのカメラマンになってくれと言われて、上向いていきました。
高須 そこまでいくのにどれくらいかかりましたか?
福田 7年くらいかかりましたかね。それまでもいくつか大きな試合でリングサイドに入れてもらうことはあったんですけど、リングサイドに入れる確率が高まったのはリング誌の仕事をするようになってからですね。
高須 気に入られたポイントは?
福田 分からないですけど写真が気に入ったとは言ってもらえました。
近藤 ほかのアメリカの雑誌を見ていて「オレでもいける」という気持ちだったのか、それとも「やっぱり写真のレベルが違うなあ」という感じ、どちらでしたか?
福田 みんなレベルはすごいですけど、最初からこう撮りたいというイメージがあったんです。編集やライターをやっていたので、イメージトレーニングをしながらやっていたので。
近藤 自分のイメージと実際に撮る写真が結びついていったのはいつごろからですか?
福田 2、3年ですかね。もともと子どものころは写真を見て海外の試合をイメージしていたので、こういう写真を撮りたいというのは強くあったかもしれないですね。
高須 編集をしていたというのは大きいかもしれないですね。
福田 自分が必要な写真はこれだ。1枚でその試合を表したい、象徴する1枚を撮りたい、と思っていました。最終的には起承転結でいくつかの写真を並べるんですけど、理想的には編集者としてこれ一番、ライターとしても自分の原稿にこの1枚という写真を目指しました。実際にアメリカに行ってもレポートを書いていたので、自分の原稿につける写真を撮っていたという感じですね。
2020年1月公開