復帰したハミルトン・ワンダラーズでは大車輪の活躍だった。
本職はサイドバックだが、チーム事情からボランチに回ることもあった。セットプレーのキッカーを任され、2023年夏の途中加入から6試合すべてに出場して1ゴール3アシストと結果を残した。プレーオフに進めなかったものの、目にケガを抱える前と変わらずプレーできていると自分のなかで確証を得ることができた。
ハミルトンでは物価の高騰もあってアパート住まいをやめて、練習場の近くで紹介された家にホームステイ。練習場とスーパーマーケットとジムだけを行き来する日々を送った。元々ニュージーランドでの生活は長かっただけに、弱視でも不便さを感じることもなかった。日本でリハビリをしているときからそうだった。
「見え方としたら水のなかに潜って見ている感じで、あまり見えはしなくても、その感覚が普通になってきましたね。こういうぼやけ方ならこうだろうって段々とコツもつかめてきたというか。焼き魚の骨も、このへんだろうなって大体分かりますし(笑)」
シーズンを終えるとハミルトンからは契約延長をオファーされたという。しかし次のステップに向かうために丁重に断った。目をケガする以前から掲げていた目標の1つがJリーガーになること、そしてもう1つが各大陸のクラブ王者が集うFIFAインターコンチネンタルカップに出場すること。2024年が記念すべき第1回大会になる。
松本は昨秋ハミルトンを退団した後、現地で十分にトレーニングを積んでから日本に帰国。Jリーグのクラブに売り込みを掛けて興味を示すクラブはあったものの、30代なかばのJリーグ未経験者に対してオファーはなかった。
ならば、とポジティブにぱっと切り替えることができるのが松本の良さ。2019年にはクラブワールドカップ(CWC)にヤンゲン・スポート(ニューカレドニア)の一員としてピッチに立っている。そのオセアニアでの実績も買われてソロモン・ウォリアーズが興味を示し、合意に至ったのだった。
オークランド戦では主将として出場した松本光平(前列、右端)©Phototek NZ
いよいよその舞台がやってきた。
5月にタヒチで集中開催されたOFCチャンピオンズリーグ(OCL)。松本が所属するソロモン・ウォリアーズはオークランドシティ(ニュージーランド)、ヘカリ・ユナイテッド(パプアニューギニア)、レワ(フィジー)と同組に入った。オークランドとレワは松本が目をケガする前に所属していたクラブであり、オセアニアに復帰してこの舞台で戦えることに喜びを感じていた。
しかしながら、初戦のヘカリ戦を0-2で落としたことがダメージとなって後に響く形になってしまう。
「序盤から試合のペースを握って決定機もあったんですけど、点がなかなか入らなかった。そんななかで後半にパパッと2点を取られてしまって、凄くもったいない試合でした」
レワとの2戦目は2-3で競り負けて、最後は今回優勝したオークランドシティに0-5と大敗。松本は両目を保護するゴーグルを身につけて主にサイドバックとして3試合すべてピッチに立ち、オークランド戦ではキャプテンマークを巻いてチームの先頭に立って奮闘しながらも無念の3連敗でグループリーグ敗退に終わった。
大変だったのはここからである。
「敗退が決まってからビザの関係でソロモンに戻る飛行機に乗り損ねて、翌日にタヒチを出る予定が結局3週間、滞在することになりました。教会の施設みたいなところにチームのみんなで雑魚寝していたのですが、水と食料の供給がストップしてしまって。そこからは自給自足の生活でしたね」
クラブのオーナーからチームに10万円ほど支給されたという。何に使うか選手たちで会議を行なった結果、なぜか水や食料ではなく音楽を流すスピーカーを購入。いやいや水と食料でしょ、とつぶやく松本の声がチームメイトの耳に届くことはなかった。
「ソロモンには売ってないからとの理由でした(笑)。びっくりするくらいでっかいスピーカー。陽気な音楽が流れるようになって、みんなノリノリになりましたね」
宿舎は海に面し、敷地内にあるものは食材にしてもらっても構わないとの許可を得ると、チームメイトは狩りに出掛けて食料を調達してきたという。松本の担当はココナッツの皮をむくことだった。
「飲料水がないので、集めたココナッツから水分を摂らなきゃいけない。むき方も皮がメチャメチャ硬いので刺してひねってと、これがなかなか難しい。ただニューカレドニアのチームにいたときにやっていたので、その経験が活きました(笑)。ココナッツは天然のスポーツドリンクと呼ばれていて、朝、昼、晩と1個ずつ飲んでいました。狩りのほうもチームメイトがやってくれるので思ったほど水と食料に困ることはなかったです」
それでも苦笑い交じりに「痩せました」とも。サバイバル生活によってメンタルが鍛えられたことをプラスに変換できるあたりが何とも彼らしい。
ソロモン諸島でのチャレンジを終えて日本に帰国してからも休むことなく個人トレーニングに励んでいる。35歳ながらフィジカルは衰えていない。Jリーガーになる夢はあきらめておらず、それが難しいようであれば再びオセアニアから世界を目指すことになる。
「どの国でサッカーをやろうとも目に対する不安はまったくありません。目をケガする前と同じくらいのレベルでやれていると感じていますから」
サッカーに対する情熱はみなぎっている。これからも自分の信じた道を突き進んでいくだけだ。
(終わり)
2024年8月公開。