フワフワな氷を口に入れると、サラリと溶ける。
〝元Jリーガー〟小椋祥平がつくる「信玄氷」。沖縄の黒糖を溶かした黒蜜ときなこが、白玉の「もちソース」と絶妙に絡み合う。山梨の天然氷を使った評判のかき氷だ。
8月なかば、天然氷を卸している横浜・十日市場町の店で出張販売すると、小椋のSNSで知ったサッカーファンが駆けつけていた。一時は店に入り切れないほどだった。
2020年9月に東京・銀座にトータルリカバリーサロン「Re:room」をオーナーとしてオープンさせたが、現在はクローズ。解説などサッカーの仕事以外は、天然氷一本でやっている。昨年7月11日には小椋が住む甲府で「甘味処・天然氷 若義」をオープンし、今は自慢のかき氷を提供する日々だ。
「頭がキーンとならないし、僕自身、かき氷の概念が変わりましたね。食べてくれるお子さんたちの反応って、一番分かりやすいじゃないですか。ちょっとびっくりした顔になって〝かき氷じゃないみたい〟って言ってもらえたときは嬉しかったですね」
天然氷に出会ったのはヴァンフォーレ甲府を最後に引退してすぐのこと。
知り合いに誘われて南アルプス・八ヶ岳の麓に赴き、天然氷の切り出し作業を手伝ったのが始まりだった。不純物が混ざらないように徹底し、気温の違いなどで納得できない氷であればやり直す。そんなこだわりと神秘の世界に、小椋は心をわしづかみにされた。
この天然氷をつくっている会社の経営者と親交を深めたこともあって、ビジネスとして卸売業を手掛けることになった。そして自分でもかき氷をやってみたいという衝動に駆られ、〝修業〟を始めた。
「最初は大変でしたよ。思うようにいかなくて削って食べてを繰り返すので、お腹を壊しちゃって(笑)。うまい人は氷をなるべく落とさないから無駄にしない。それに氷は縦に出てくるのでそれをそのまま受け取ってしまうと、シロップや練乳をかけると穴が開いてつぶれてしまうんです」
氷を削る刃の角度を調節するダイヤルをうまく使うのがコツだそうだ。荒い氷になってしまうと、あのフワフワ感は出せない。小椋の中指にはタコができていた。かき氷で忙しいかどうか、それを見れば一目瞭然だ。
情熱を持ってサッカーに打ち込んだように、かき氷とも向き合う。つぶあんなど自分でつくれるものはなるべくつくる。天然氷にトッピングする材料にもとことんこだわっているから、反響を呼んでいるのだ。
今の彼があるのも、サッカーで培ってきた人生経験があるから。〝サッカー人〟小椋祥平の半生をあらためて振り返ってみたい。
まだマムシと呼ばれるなんて想像もできなかったティーンエイジのころ。意外にもちょっと気弱な一面があって、サッカーでも自信を持つことができない少年であった。
無理もない。中学に上がる際に、FC東京U-15のセレクションに落ち、U―18でリベンジを図ろうとしたが見事に返り討ちに遭ったというのだから。
生まれも育ちも千葉・船橋。それでも東京の強豪校として知られる修徳高に進学したのはどちらかと言うと消極的な理由からだという。
「市立船橋からは声を掛けてもらっていないし、習志野もちょっと難しいかなと。3つ上の兄が修徳でやっていたこともあったし、高校選手権も東京なら2校出ることができるので1校の地元千葉よりも可能性あるんじゃないかって」
兄は全国高校選手権に出場経験があり、「チャンスがあるなら出てみたい」くらいの軽い気持ちだった。だがすぐにそんな甘ちょろい考えじゃ通用しないと思い知らされる。
修徳は北澤豪、神野卓哉ら日本代表選手を輩出し、文武両道の厳しい指導でも知られていた。人間教育を大事にする向笠実監督の方針でもあった。
「向笠先生はよく『サッカー選手である前に、一人の人間であれ』と仰っていて、しっかりした人にならなきゃダメだと教えられました。コンクリートの上をずっと走らされたりして、〝この練習がサッカーをやるのにどんな意味があるんだろう〟って最初は疑問に感じたこともありましたけど、忍耐力はつきました。中学までは楽しくサッカーをやれればいいと思っていました。でも逆に高校では厳しい側面を体験できたことが自分にとっては良かったのかなって思います」
朝練をして、授業もしっかり受けなければならない。居眠りも赤点も厳禁だ。進学クラスにいた小椋はそれも成績のいいクラスに入っていたこともあって3年時にキャプテンに選ばれた。
最も模範にならなければならないため、指導もより厳しくなる。小椋は苦笑いを浮かべながら振り返る。
「部室が汚いってだけで、こっぴどく叱られたこともあります。僕らの部室って狭くて、3年生しか使えないんです。でも僕は狭いから外で着替えるようにしていたので、僕自身は使っていなんですけど『お前がしっかりしていないから』と、それはもうすごい剣幕で。でもキャプテンをやってよかったなと思います。人としては成長できたと思うので」
高校2年間を終えても全国選手権に出場できず、目立った結果も残せていない。だが人としての成長は、サッカー選手としての成長を意味していた。
小椋は高校3年生の国体で東京都代表に選ばれた。FC東京U-18の梶山陽平、李忠成、東京ヴェルディユースの一柳夢吾ら錚々たるタレントがそろっていた。特に梶山は高2ながらトップチームでヤマザキナビスコカップに出場しており、「すげえうまいと思った」と圧倒されていた。
心躍る思い出になったと思いきや、むしろ逆だった。
「どうして自分が選ばれたのか分からなかった。修徳のコーチが国体のチームの監督になったので、そういったところも理由だったんじゃないかって思います。帝京のメンバーもうまかったし、自分だけが何か置いていかれているような感覚を持ちました。自信なんてなかったですし、余計に〝俺なんかじゃ無理〟と思うようになって……。力がないことを痛感させられただけ。早く帰りたいと思っていました、本当に」
圧倒的な差を感じて部に戻ってくると、サッカーに打ち込めない自分がいた。
アイツらには勝てない――。
テクニックでは勝負にならない現実を突きつけられ、茫然自失の日々が続いた。
最後の高校選手権の東京都予選が近づいていた。キャプテンがこんな気持ちではチームの士気にかかわると考え、ついには「部活を辞めたいです。自分にはもう無理です」と監督に退部願いを申し出た。
これにはさすがの向笠監督もコーチも驚いた。自宅まで足を運んでくれたコーチに説得されて撤回する。もしここで部を辞めていたらその後のプロ人生もなかったかもしれない。
気合いを入れ直して臨んだ最後の選手権は東京都予選準決勝で成立学園に敗れて届かなかった。
進学クラスで好成績を収めていたため、大学に進学することも十分可能だった。サッカー部のある地方の私立大学から声を掛けてもらっていたが、大学進学に気持ちが乗らなかった。両親に負担を掛けたくないという思いが、どうしても消えなかったのだ。
「兄が高校、大学を私立で、自分も高校は私立。妹は中学生でこれからお金が掛かるじゃないですか。お父さんはサラリーマンで頑張ってもらっているのは分かっていたし、子供ながらに〝俺まで大学、私立に行ったらウチ、きついんじゃないか〟って思ったんです。両親からすればそんなの心配すんなって言うとは思うんですけど……」
無論、国体で同世代の選手とレベルの違いを感じていただけにプロという選択肢は最初はなかった。答えがなかなか見つからないでいた。
そんな折、J2の水戸ホーリーホックから練習参加の話を向笠監督からもらった。前田秀樹監督との親交があって実現した話だったという。断るわけにもいかず、チームメイトの真行寺和彦らと3人で参加することになった。
2023年9月公開