ゲンナジー・ゴロフキンとのメガファイトから1年。
「僕のボクシング人生を全体像の総括として考えるのであれば、悔いというものはない」
ロンドンオリンピック金メダリスト、世界チャンピオン。ボクシング界の最激戦区であるミドル級で天下を取った村田諒太は、そう言葉を残してプロボクサーを引退した。
その引退会見から1カ月後、彼の著書「折れない 自分をつくる闘う心」(KADOKAWA)が出版された。
歴史的一戦の振り返りも読みごたえがあるが、ゴロフキン戦に向かう知られざる内面との戦いこそがこの本の主題。コロナ禍の直撃で延期になるなど紆余曲折を経ながらも試合に向かっていく彼のリアルな姿は心に響くものがあった。本書の構成を担当し、編集協力として参加した日本経済新聞社の山口大介さんに、じっくりと話を聞いた。
二宮 まえがきに「スポーツ心理学者の田中ウルヴェ京さんのサポートのもと、ゴロフキンという強豪の向こうにいる自分と向き合い、もがき続けた」とあります。私も、山口さん同様に定期的に村田さんを追ってきましたが、ここまでのもがきがあったとは知りませんでした。
山口 彼のようなトップアスリートであっても、こんなに心が揺れ動いていたのかと私も驚きがありました。自分の心のうちをすべてさらけ出しています。本書のまえがきには「人に言えない弱さを自覚したとき、人間は孤独を覚えがちだ。でも、弱くない人間などいない」と書いてます。どう受け取ってもらっても構わないから、自分のありのままを見てくださいという一冊だと思います。
二宮 アスリートが著書として出す本としてはちょっと異質にも感じました。
山口 あくまで編集協力として携わったうえでの感想ですけど、(アスリートが出すなら)ポジティブシンキングとか諦めなければ夢は叶うとか、そういったメッセージ性のある本をイメージしやすいと思うんです。でも彼としてはそんな単純じゃないよっていうことを伝えたかったんじゃないかなって。
二宮 ソウル五輪シンクロナイズドスイミング・デュエットのメダリストでスポーツ心理学者のウルヴェさんとのセッションは、メガマッチに臨む自分のメンタルの〝実録〟を残すことが後進のためになるという考えから始めたものだと僕も本人から聞いたことがあります。本文の間に時折、入ってくる2人のセッションでのやり取りは、村田さんの心のうちをリアルに映し出していましたね。
山口 セッションは2021年11月10日から始まって、(試合までの)半年間で大体2週間に1回、多いときで1週間1回というペースで行なっていました。合計19回にも及び、毎回約2時間ですからざっくり38~40時間。映像に残しているので、村田さんとウルヴェさんの許可をいただいたうえで私も全部見させてもらいました。セッションのなかでも(本文と照らし合わせて)重要だと感じたやり取りを時系列順に書き出していくことで心の揺れとか、試合に向けてどうやって固まっていくかが、伝わるような構成を編集協力者として心掛けたつもりではあります。
(試合撮影・高須力)
二宮 セッションの雰囲気自体は実際どうだったんですか?
山口 ご存知のとおり当初は(2021年)12月29日に試合が決まっていました。そこまでは割と表情は明るいし、リラックスもしていて試合に向けて自分をどうつくりたいかっていう話が多いんですよね。でも新型コロナのオミクロン株まん延の影響で12月3日に延期が発表されてからは、気持ちとして落ちてしまっている状況を吐露するほうになっていきます。先が見えないなか、自分の置かれた状況を恨む言葉や集中できない自分自身への自己嫌悪感みたいなものをウルヴェさんにぶつけていました。
二宮 次の「来春」という予定だってコロナ禍でつぶれてしまう可能性だってあったわけですからね。
山口 4月9日開催が発表されたのが3月3日。この間、宙ぶらりんのなかでどういうふうに気持ちをもう1回立て直せばいいのかみたいなところはセッションの映像を通じてですけど、本人もかなり苦しんでいたように見えました。
二宮 そのときはどんなセッションになっていたんですか?
山口 試合日程も決まらない状況でゴロフキン戦に気持ちも向かいにくく、代わりにセカンドキャリアの話が増えていくんですよね。人生懸けてやってきたものがなくなったときに次の場所をどう見つけていくんだろうか、とか。
二宮 ゴロフキンではなく、引退後の自分に目を向けているようにも感じますね。
山口 私もそう感じました。試合を飛び越えちゃってるな、と。ただ、このやり取りは本書に出ていません。彼の偽らざる心境だったと思いますが、ゴロフキン戦に向かうストーリーの中では1つの〝脱線〟だと思い、本のなかには入れませんでした。
二宮 セッションばかりでなく、2人のLINEのやり取りも記されています。これはセッションの〝延長戦〟なんでしょうね。
山口 LINEの時間を見てほしいんですけど、午後10時とか11時とか。つまり2時間のセッションを終わった後、まだ話が続いている(笑)。
二宮 それほどもがいているっていうことなんでしょうね。
山口 ウルヴェさんには今回、全面協力していただいているので本当に感謝しかないです。本の最後にはあらためて2人が対談していますから、セッションの答え合わせ的なところも含めて読んでいただけるとうれしいですね。
(試合撮影・高須力)
二宮 田中ウルヴェ京さんとのセッションを通じて、山口さんの知らない村田諒太はいましたか?
山口 大体イメージどおりではありました。自分の弱い部分をさらけ出していましたし、世間の人からすれば意外に思われるかもしれませんが、彼を取材してきた立場からすると、考え方を含めて自分のイメージとかけ離れてはいなかったと思います。ただちょっと想像以上だったのは、母校である南京都高校の話が本当によく出てきたことです。私が思っていた以上に、南京都に対するアイデンティティーや帰属意識が強いんだなと思いました。
二宮 引退会見の際も、南京都ボクシング部のOBたちからいくつもメッセージが届いていました。
山口 逆に二宮さんがこの本のなかで知らなかったことって何かありました?
二宮 いくつもありますよ。衝撃的だったのは延期が決まってからのスパーリングで、「スパーリングパートナーを殴ることに抵抗を感じ始めていた」というところ。
山口 そうですね、僕もこれには驚きましたよ。本書にも出ていますが、気持ちがダウンしていた、と。
二宮 だから一つひとつが本当にリアルで、いろいろとあったうえにあのゴロフキン戦、あのファイトがあったと思うと、感慨深いですね。
山口 それはもう本当に。