「Olympic Games」はアスリートにとって4年に1度の夢舞台です。サッカーのワールドカップの参加国が32なのに対して、オリンピックのそれは200を超え、競技の特性上、参加国が少ないとされる冬季大会でも100カ国近くの国と地域が集まります。オリンピックがスポーツの祭典だと言われている所以です。そして、そんなオリンピックは取材するメディア関係者にとっても夢舞台なのです。世界中からメディアが集まるから取材IDの取得はワールドカップとは比べものにならないほど難しい狭き門でもあります。そんなプラチナチケットとも呼べる権利を一介のフリーランスである僕が一度だけ獲得することができました。2010年、バンクーバーオリンピックです。
このときは日本雑誌協会(JMPA)の代表取材チーム5名のフォトグラファーの一人に指名してもらう幸運に恵まれました。通常JMPAの代表取材は加盟各社のスタッフフォトグラファーで構成されるのですが、このときはある出版社の厚意で僕に白羽の矢が立ちました。フリーランスが代表取材に加わるのは98年の長野大会以来の出来事だったそうです。大会前からそんな話を聞いていたので、フリーランスがオリンピック取材を今後も続けられるような結果を残したいと僕は考えていました。しかし、そんな気負いがやがて大きなプレッシャーになるとはこのときは思ってもいませんでした。
2月12日に開幕したバンクーバーオリンピックは2日目にして、日本にとって最初のハイライトを迎えました。上村愛子が出場する女子モーグルがサイプレスマウンテンで行われたのです。98年長野大会で国民的な人気を獲得した彼女の4度目にして集大成ともなる瞬間です。98年大会で7位、02年大会が6位、06年大会で5位。過去3度のオリンピックで一段ずつ登ってきた彼女のキャリアを考えると表彰台にかかる期待は大きかったです。
大会前から暖冬の影響で雪不足に悩まされていたバンクーバーでしたが、この日は一日中、雨が降っていました。冬季五輪で雨が降るとは思ってもいませんでしたが、カメラにレインカバーを付けて撮影に臨みました。しかし、決勝が始まるあたりで400mmの超望遠レンズが曇り始めてしまったのです。今まで寒い屋外から、暖房の効いた屋内へ入ったときに寒暖差による結露で曇ることはありましたが、屋外にずっといて曇った経験はなかったので原因はわかりませんが、おそらく一日中弱い雨に打たれ続けたのがマズかったのだと思います。いずれにしても曇ってしまったレンズをクリアな状態に戻すのは簡単ではありません。何度もレンズ表面を拭いましたが、そのタオルもすでに湿っていたので効果は望むべくもありませんでした。当たり前の話ですが、カメラマンのそんなトラブルなど関係なく競技は着実に進行します。そして、いよいよ上村愛子がスタート台に立ちました。4度目の正直。誰もが彼女のメダルを願っていたと思います。フォトグラファーとして絶対に失敗が許されない瞬間です。
焦りまくっていた僕は、やむを得ずサブで使っていた70-200mmという中望遠レンズを使用して競技を抑えることにしました。しかし、この瞬間のためだけに午前中から何度もテストを重ねた400mmのレンズを使えなかった落胆は大きかったです。だからといって、過ぎたことでいつまでも落ち込んでいる暇はありません。何がなんでも結果を残さねばならないと躍起になっていた僕は挽回を図ることにました。まだレースは残っていましたが、コースを降りることにしたのです。目指したのはミックスゾーンでした。ミックスゾーンは選手が記者にコメントをするための場所です。おそらく最後になるオリンピックを終えた直後の彼女の表情を狙いたい、そう考えたのです。しかし、ミックスゾーンはフォトグラファーが立ち入ることができないエリアです。なるべく近くまで行きましたが、距離が遠く、表情を狙うためには超望遠レンズが必要でした。そこで、先ほどまで曇っていた400mmをレンズを装着したカメラを覗いてみます。
「うおおおおお、めっちゃ曇ってる!」
でも曇ってることでソフトフォーカス効果があって、これはこれで悪くないかも? と無理やり自分を慰めつつメディアセンターに引き上げたのですが、すでに作業を開始していた同じJMPAのフォトグラファーが撮ったミックスゾーンでの写真をみて僕はショックを受けました。隣の芝は青く見えると言いますが、僕はめちゃくちゃ青く見えてしまうタイプです。
「あああああ、そういうアプローチもありなんですね、、、」
僕とは違うポジションで撮影された写真をみて、自らの経験不足を痛感させられ、取材2日目から惨敗感を味わうことになったのでした。
続く
2009年、猪苗代でおこなわれた世界選手権での上村愛子
2024年1月公開