水戸のマムシから、ハムのマムシへ。
J2の下位チームから、J1の強豪チームへ。
2008年シーズン、背番号30を背負って横浜F・マリノスと単年契約。お金や契約に無頓着な小椋祥平は、このときまで複数年契約があることを知らなかったそうだ。横浜で通用しなかったら1年でクビになるかもしれない。常に危機意識を持って勝負しようとする彼のマインドに単年契約は合っていたと言えるのかもしれない。
しかしながら――。
想像した以上の高いレベルに飛び込んでみると、克服したはずの劣等感と疎外感が小椋の胸をかきむしるようになっていく。
「うまい人たちとサッカーをやっていくことで、自分もうまくなっていけると考えていました。でも何で言うんですかね……周りがうますぎてついていけなくて。あの国体と似てはいましたけど、マリノスはみんな個性が強いというかアクが強いというか(笑)。今の時代はJ2やJ3のクラブからJ1に移籍する流れは普通ですけど、当時はJ2の下位クラブからJ1のそれも大きなクラブに移籍するケースってあんまりなかったと思うんです。正直〝なんだお前〟的な目で見られていたし、年下のヤツからも明らかに距離を置かれていました。自分としても、下手で、ミスも多くて。移籍した最初のころは精神的にもかなりきつかった。やめたいって思ったこともありました」
マレーシア戦以降は反町ジャパンに招集されず、桑原隆監督を迎えたF・マリノスではノーチャンスだった。このままいけば1年でクビになるのは確実だと感じた。それでもトレーニングからマムシぶりを発揮することだけは忘れなかった。
F・マリノス時代の小椋。やがて中心選手に成長していく 撮影・高須力
苦悩する22歳の若者に助け舟を出したのが、7つ年上の河合竜二であった。知人の結婚式の二次会に呼ばれ、河合のことを知っている先輩がいた。「しっかり話をしたことがない」ために尻込んだものの、同席させてもらってこの日ばかりはトコトンまで飲んだ。懐の大きな河合の前で、自分をさらけ出すことができた。
以降は〝一匹マムシタイプ〟の小椋を、ちょっとずつ輪に溶け込ませようと河合が気を利かせるようになる。クラブの顔である松田直樹にも次第に可愛がられるようになっていく。もちろん日々のトレーニングから必死についていこうとする姿が認められはじめていたのも確かだった。シーズン途中で木村浩吉監督にバトンタッチすると、小椋も3バックのストッパーでようやく出場機会を得るようになる。
「うまくやろうとしても無理なんで、とりあえず食らいついてボールを奪ったら味方にすぐ預けるという形。ミスしたらまたつぶしにいく、その繰り返しでした」
河合からは「お前はやれることをやってくれればいい。あとは俺らでやるから」と言ってくれていた。松田からはいつも「下手くそ!」と怒られながらも「お前はボールを取るのはマジで凄いから!」と褒めてもくれていた。チームのレベルについていくだけで必死だったが、一方で自分の守備がJ1でも通用できると自信を得ることもできた。
激動の移籍1年目を終え、小椋は高校時代の同級生である麻紀さんと入籍する。J2時代は一人で生活することで精いっぱいだったが、J1でもやれる感触を得たことで結婚を決めた。
「結婚したことは今振り返っても大きかったと思います。独身時代は俺、メシなんてちゃんと食ってなかったし、栄養面でも支えてもらえたんで。ちゃんと身を固めて、プロとしてしっかりやっていこうと思いました」
結婚を境に、小椋はチームの中心選手に成長していく。
3年目の2010年シーズンを終えると、お世話になった河合と松田が契約非更新でチームを離れた。河合がつけた背番号「6」を引き継ぎ、チームに対する2人の思いを宿す自分がやらなきゃいけないという責任感も芽生えていくようにもなった。
2011年8月、当時JFLの松本山雅でプレーしていた松田が急性心筋梗塞によってこの世を去った。深い悲しみから抜け出すまでに時間が掛かった。プロとは何かを教えてもらった恩人だった。
「マツさんはいつもサッカーを熱く語る人。それにサッカーだけじゃなくて『お前はJリーガーなんだから』って良く言われました。車のことを相談したことがあったんです。そうしたら『小さい子がスゲエって言うくらいの車にしろ。憧れを持ってもらう職業なんだから』と。服なんかも一緒に買いに連れていってもらったりしました」
恩返しは、頑張ること。
木村和司監督のもとでは「ちゃぶれ」(広島弁で遊べの意味)と口酸っぱく言われ、相手をおびき寄せて裏にボールを出すなど攻撃面でも貢献度が高くなっていく。
しかしタイトルを義務づけられたチームにおいて激しい競争は当然のこと。ボランチには中町公祐、富沢清太郎らの実力者が加わった。彼らとの争いのなかでベンチにいる時間のほうが次第に長くなる。優勝に王手を懸けた2013年シーズンは終盤に投入されるクローザーの役割を担った。
9年ぶりのリーグ制覇まで勝ち点はあと1。優勝の懸かるホームのアルビレックス新潟戦(11月30日)は日産スタジアムにJ1最多入場者6万2632人を集めながらも0―2で敗れて優勝を決められなかった。それでも最終節のアウェー、川崎戦で引き分け以上であれば優勝を決めることができる。
新潟戦でベンチに入っていた小椋に出番はなかったが、次の相手、川崎との一戦には出る予感があった。過去にジュニーニョに仕事をさせなかったようにフロンターレとはずっと相性がいいと感じていたからだ。つなぐサッカーをつぶすのは自分の仕事だ、と。
小椋には後悔があるという。
「このままの雰囲気じゃ勝てないんじゃないかと思ったし、新潟戦が終わった次の練習から嘘でもいいから雰囲気が明るくなるように、もっと声を出していけば良かったなって今になって思います。確かに出られない時期で葛藤はいろいろとあったんです。出ている選手と同じ役割を求められるので、ボールを奪いにいく自分の特徴を出しにくいところもあって。凄く中途半端になっていた自分がいました。だけど優勝が懸かったあのとき、たとえ試合に出られなくてももっと自分がやれることはあったんじゃないかとは思います」
結局、樋口靖洋監督からお呼びは掛からず、0-1で敗れて優勝を取り逃がした。悔しくてたまらない経験になった。
2023年9月公開