エディオンアリーナ大阪は1ラウンド終了時点でラスベガスとは違う夜になりそうな期待感で充満していた。呼吸は乱れていない。いい感じだ。陣営からは「完璧な立ち上がりだぞ」という弾む声が耳に届いていた。2ラウンドが始まると、どこからともなくム~ラ~タッ!の大合唱が起こる。
今回、初めてルーティンに取り入れた行為がある。それは、瞑想トレーニング――。起きた後と寝る前、椅子に座って姿勢を正し、目を閉じる。1日20分ずつ決まってやることにした。
「頭ってずっと考えごとをするんです。その要因って、ほとんどが心配ごと。考えることで不安が停止するから考えたがる。ストレスって大体がトレーニングの前。スパーリングが何ラウンドあって心配だ、とか。始まってもないものにストレスを抱いても仕方がない。ようやくそこに気づいて、最近になって『心配しなくていいぞ』っていう自分に声を掛けるキーワードを見つけたんです。瞑想のおかげで、夜も心を落ち着かせて眠れるようになった。嫌な夢もなかった。試合で入場するときも、無に近い状態でいきたいと考えていて、そのとおりになっていたと思います」
躍動とはこういうことだ。
頭を動かしてジャブをかいくぐり、プレッシャーを強めていく。左フック、右ストレート、左ボディーのコンビネーションを繰り出し、すぐ後の強烈な右がブラントの動きが止めた。ここでも左ボディーを叩き込むのを忘れない憎らしさがあった。
ロープ際に追い込んでインサイド、アウトサイドから左右のパンチを浴びせ、逃げる王者に放った左フックでぐらつかせた。
「(最初の)右が一発効いて、このまま詰めるという感じでした。あそこで右一辺倒にならずにボディーストレートから左フックを返せたのが良かった。バランスが悪いと絶対に出ないパンチ。これもトレーニングの成果でした」
コーナーに追い込んで連打の嵐。もう一度次に右、左と振ったところでついにブラントが吹っ飛んだ。
すぐに起き上がってくる王者を、にらみつけていた。
「終わるというか、絶対に終わらせる、と。回復するダメージじゃないと確信していましたから。もうあとは無意識に。意識したら無理ですから(笑)」
残り1分20秒。時間はたっぷりとある。
右も左も、崩さないフォームのままで襲い掛かる。それでもレフェリーが止めそうで止めない。
「はよ、止めろや!」
関西弁の心のツッコミを力に変えて、拳に乗せていく。横っ面を射抜く右ストレート2発でようやくレフェリーの手が挙がったのだ。完敗した相手とのリマッチは圧倒的不利というのがボクシングの常識を、剛腕でブチ壊してみせたのだった。
繰り返したい。奇跡ではなく、軌跡だと。村田はこう言葉を強めた。
「練習が良かった、それがすべて。そのうえでリングに上がれた。練習は嘘をつかないって言葉がありますけど、僕のなかではしょっちゅう嘘をつく(笑)。でもね、練習したことしか出せないんです。(南京都高時代の)武元(前川)先生がよう言うてましたもん。『努力したから、練習したからって報われるわけじゃない。でも努力しないと報われない』と。今回はたまたま努力したことが報われただけだと思っています。前回はブラントの夜だったけど、今回は自分の夜になった。それだけのこと。
もちろん運はありました。ただ、今回はスパーの内容から言っても、そのまま出せれば勝つというところまで行っていたと思うので〝勝つべくして勝てた〟この事実は、自分に対する自信になりました」
プロで初めて「完敗した」と認めるしかなかったあの経験があるから今がある。ベルトを失った経験があるから、先を行くことができる。自分の弱さを認め、失敗した原因を探り、やるべきことを整理する。心を穏やかに、心配に押しつぶされないようにする。負けたら引退。プレッシャーがないわけがない。それでも打ち勝ったこの9カ月間は人間的な成長を促す時間になった。
心の痛みを知るから、強くなれる。
彼はブラントから奪ったベルトを誇示することもなかった。
「負けて自分のベルトをブラントが持ち歩いたのはもの凄く悔しかった。だから相手にそんな気持ちを抱いてほしくはなかった。絶対、喪失感というのがあると思うので。僕以上かもしれないですから」
倒した相手の気持ちも背負って、次に向かう。好敵手アッサン・エンダムにリベンジを果たした折、彼はそう肝に銘じた。無論、今回も同じである。
ミドル級の頂点に君臨するサウル〝カネロ〟アルバレス、そしてゲンナディ・ゴロフキンが次の対戦候補に挙がるという。ブラントを2回KOした衝撃がスーパーマッチを後押しする可能性は十分にある。
試合翌日も、翌々日も瞑想トレーニングを欠かしてはいない。自省を繰り返し、地に足のついた自信を生み出し、周りに支えられ、押し上げられる。
2019年4月下旬にブラントとのリマッチが発表される前、読書家の彼は一冊の本と出会った。ローマ帝国五賢帝の一人、マルクス・アウレリウスが記した「自省録」。日々、自分の内面と向き合い、あるときは諭し、あるときは奮い立たせる一つひとつの言葉が胸に突き刺さった。
≪未来のことで心を悩ますな。必要ならば君は今現在のことに用いているのと同じ理性を携えて未来のことに立ち向かうであろう≫
≪いかなる行動をもでたらめに行なうな。技術の完璧を保証する法則に従わずには行なうな≫(神谷美恵子訳、岩波書店)
今を全力で立ち向かい、それが終われば己の行為と心の内を省みる。村田はまさにそれを続けてきた。
毎日は嘘をつかない。いやいや、しょっちゅう嘘をつく。それでいい。
大切なのは毎日嘘なく、崩れることなく過ごすこと。村田諒太の「自省録」には、そう記されたに違いない。
(表紙写真、記事中写真ともに高須力)
激拳譜 村田諒太の軌跡 終
2023年7月再公開