多読から、一読へ。
イタリアから挑戦者エマヌエーレ・ブランダムラを迎える初防衛戦を前に、村田諒太は最終調整で数日過ごすことになる都内のホテルに一冊の本を持ち込んでいた。
心理学者ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」。第二次世界大戦中、ナチスの強制収容所での体験を基に生きる意味を記したフランクルの代表作である。村田は〝戦場〟へ向かう前に、なぜ読み込んできたこの本をバッグに忍ばせたのか――。
初防衛を果たしてから4日後、穏やかな表情の彼が待っていた。「夜と霧」の話から切り出すと、読書家はこう応じた。
「その本について何を見ようとしているのか、が人にはあって、今の自分にとって必要な箇所というものを見るわけです。読者である自分の心理が変われば、読むところ、心に触るところが変わってくる」
彼が必要とした箇所は、「苦しむことへの意味」。フランクルが様々な本で、記してきた問い掛けでもある。書にある、死期を悟った女性の言葉を心で触ろうとした。
≪今までのうのうと生きてきた私にとって、自分の内面がどうこうと窺い知ることはできなかった。だから私はこのひどい運命に感謝している≫
確かそのような言葉だった、と記憶をスラスラと口にする。当然ながら本に出てくる「苦しみ」と比較することなどできない。だが苦しいときにこそ自分と向き合えるという真理が胸にスッと入り込んできた。
2017年10月、アッサン・エンダムとの再戦に勝利してミドル級の世界チャンピオンになった。勝って当然という目で周りから見られるなかで結果を出した。今回の相手ブランダムラは格下といえども、的を絞らせないアウトスタイルはやりにくいことこの上ない。しかし、勝っただけで満足はされない。その重圧と向き合う日々は、苦しみを受け入れていく作業でもあった。
「心のどこかで、試合なんかしたくないという気持ちだってありましたよ。そういう弱い自分と向き合う時間があって、だからこそ苦しみも含めてボクシングなんだ、と。よくスポーツの世界では〝楽しめ〟とか言うじゃないですか。それが出来ればいいですけど、無理に楽しむ必要もないなって」
リングには素のままの村田諒太がいた。大好きなジミー・レノン・ジュニアのコールも、この日は落ち着いた表情で聞き入った。自分と向き合ってきた末に「もうすぐ始まるし、もうすぐ終わる」と、なるようにしかならないぐらいの達観に近い不思議な感覚に包まれていた。
2018年4月15日、横浜アリーナ。
程よい緊張感と、明鏡止水の心持ち。
初回、張り詰めた静けさが会場を包んだ。ジリジリと詰め寄ってプレッシャーを掛けながらも、最初のジャブが出るまで時間を要した。
「まずは相手のパンチをもらわないことが重要でした。いくらKO率が低いとはいえ、あの体からのパンチで変なタイミングでもらったら効くに決まっていますから。警戒しつつ〝前に来られたらつらいな〟と思わせたい。初回は捨てるつもりでした」
相手の動きを把握した後は、丁寧に左ジャブから組み立てようとする。硬くて、重くて、鋭くて。パトリック・デイらスパーリングパートナーから「お前のジャブは嫌だ」と称えられるなど、自信を深めていた。
「やっていて、負けないとは思いました。判定までいったとしてもジャブが当たっている限り、ポイントは取れますから」
次に右ストレートの修正に取り掛かる。体が先に回転して繰り出すパンチは狙う位置よりも打点が低くなっていた。相手によるものではなく、あくまで自分のフォームの問題だとすぐに結論づける。
どこまでも冷静に、どこまでも沈着に。一つひとつプロセスを踏み、うまくいっていないことをつぶしていく。この日の村田は無機質に相手を追い詰めていくAI将棋のようなボクシングに映った。
テーマの一つにしていたのが、「邪念との戦い」だった。
チャンピオンらしく相手を圧倒することばかりを意識すれば、自分を見失うことにもなりかねない。試合に向け、ことあるごとに「邪念」というフレーズを口にしては己の心の支配下に置こうとしていた。これは帝拳プロモーションの代表で元世界王者の浜田剛史氏から受けた言葉だという。
「試合に向けたスパーリングって初めの2週間はいいんですけど、必ずと言っていいほど3週目に悪くなる。最初は疲れかなと思っていたんですけど、浜田さんに言ったら『ああ、邪念か』と。なるほど、2週目で感覚をつかんで、3週目でいろんなことをやってやろうと思うから、崩れてしまう」
ただその「邪念」を抑えようとはしない。むしろ受け入れてコントロールしていく。
「だって(邪念の)気持ちがなかったら、チャレンジしなかったら成功も失敗もないじゃないですか。ダメな時期にはなりますけど、そのうえでの成長がある」
邪念を抑える一方で、それを最高のタイミングで吐き出したのがノックアウトシーンの8回である。
右カウンターを浴びせ、ガードが前に出ていたのを見逃さなかった。追い足を使って横から打ち込むフック気味の右ストレートを打ち込んで一発で仕留めた。
真ん中を固めるブランダムラに対して強引に横から打ち抜いたのは、冷静沈着と邪念の大いなるシンクロであった。
「KOと判定では周りの評価も違ってきますからね。本当にホッとしたというだけ」
重圧からの解放が束の間でしかないことを本人はよく理解している。
苦しみを受け入れ、苦しみと向き合う。
邪念を受け入れ、邪念と向き合う。
ミドル級世界チャンピオンの宿命を受け入れ、向き合う。
苦悩の果てに辿り着いた境地。その覚悟を示した横浜アリーナの夜だった。
村田は言う。
「最近、思うようになったのはアスリートとしてリスペクトされるアイコンでなければならないということ。そういう使命感を持っています。挑戦する姿を、人は見ていますから。尊敬されるような存在を目指さなきゃいけない。僕はベルトがあるだけで(ミドル級の)一番ではない。(ゲンナディ・)ゴロフキンに勝って一番になれたら、もう辞めたっていいと思っていますから」
トップオブトップの道なき道。村田諒太は肩肘張らず、ありのままで往く。
(表紙写真 高須力 記事中写真 山口裕朗)
2023年7月再公開