虐待、非行 いつも死にたいと考えていた少年時代
僕みたいな人間でもやればできることを伝えたい――。
ボクシングの元東洋太平洋チャンピオン、勅使河原弘晶は自らのことを「僕みたいな人間」と表現した。幼少期に親から虐待を受け、心がすさみ、非行に走った10代。テッシーは今、そうした自らの人生を、同じような過去を持ち、苦しんでいる人のために、YouTubeなどを通して積極的に発信するようにしている。
「自分は虐待を受けて、自己肯定感が低くて、考え方もひねくれて、非行に走っちゃったりしたけど、今こうして変われている。人間は考え方を変えればいくらでも方向転換できるし、何でもできる。僕はボクシングの才能があったわけじゃなくて、本当に死に物狂いで練習して、世界チャンピオンにはなれなかったけど、いちおう東洋チャンピオンまでになれた。そういうことを伝えていきたいんです」
壮絶な少年時代だった。以下、すべて本当の話である。
勅使河原は物心つく前に両親が離婚し、父親に引き取られて育てられた。やがて父親が再婚、一緒に暮らすようになった義理の母親からの筆舌に尽くしがたい虐待が始まる。定かな記憶はないのだが、おそらく小学校1、2年生のころの話だ。暴力は日常茶飯事で、まともな食事を与えられず、他の家族が食べ残した前夜の残飯にゴミや大量の塩やみそを混ぜたものを食べさせられた。
学校に通うことさえ許されず、2階の一部屋に監禁された。死にたいと思い、2階から飛び降りたこともある。やがて夜中に家出を繰り返すようになり、コンビニで万引きをして飢えをしのいだ。声をかけてくれた見知らぬ大人の家に泊めてもらい、温かい食事とふとんにありつき、心の底からホッした気持ちは今でも忘れていない。そんな“生き地獄”は父親が「離婚するから家を出て行くぞ」と言って義母の元を去る小学校5年生まで続いた。
これを機にようやく学校へ通うようになるのだが、友だちの作り方が分からない。虐待は少年の精神をむしばみ、当然身についたはずの年齢相応の社会性を奪った。他人とコミュニケーションを取る能力は乏しく、自己肯定感が異常に低く、コンプレックスの塊だった。
炎のチャンピオン、輪島功一が人生を変えた
あるとき、万引きをしてみると友だちの自分を見る目が変わった。「お前そんなことしていいのかよ、すげーな」。悪いことをすれば認めてもらえると感じた。自分に価値があると感じた。非行こそが生きる道となった。
やがて暴走族に入り、悪さを重ねた。仲間と暴れ回るのは楽しかったが、心はいつもすさんでいた。少年院に送られ、出てきて2週間後に逮捕状が出て、少年院に逆戻りとなった。そのとき久里浜少年院に送られることを期待していたのだが、送られた先は小田原少年院だった。
「恥ずかしいんですけど、一番悪いと言われている少年院に行こうとずっと考えていたんです。それが久里浜です。暴走族をやっていて、その次はヤクザになると思ってました。それしか生きる道がないと思っていた。一番悪い少年院に入ったほうがいいヤクザになれるというか。そんなふうに考えてました」
小田原では久里浜に移送してもらおうと、院内でわざと傷害事件を起こしたこともあった。そんな見ているだけで痛々しい19歳がいきなり一冊の本に人生を一変させられてしまう。タイトルは『炎のチャンピオン』。元世界J・ミドル級王者、輪島功一の自伝だった。
「なぜ、あの本を読んで急に変わったのか。いまでもよく分からないんですけど、運命だったんだと思います。輪島会長は僕の人生を変えてくれた恩人です」。
現役時代の勅使河原と恩人の輪島功一会長
昭和の人気ボクサー、輪島功一は北海道の貧しい家庭に生まれ育ち、幼い頃から働いて家計を支えた。10代で上京し、肉体労働に汗を流す。あるとき、仕事帰りに偶然目にしたボクシングジムで、ボクサーたちがトレーニングしている姿に心を奪われた。25歳でプロボクシングにデビューし、28歳で世界チャンピオンとなった。少年院でくすぶり、人生に何の希望も持てなかった19歳は、輪島のストーリーにワンパンチでノックアウトされたのだ。
「輪島会長は努力と根性で世界チャンピオンになった。僕は別に腕っ節が強かったわけじゃないけど、努力と根性だけは自分にあると思っていた。チャンピオンになれば自分は価値のある人間になれる。本を読み終えた瞬間、輪島会長のような世界チャンピオンになると決めました。そこから少年院での生活態度もガラッと変わりました」
少年院を出た勅使河原は東京・西荻窪にある輪島功一スポーツジムの門を叩く。格闘技の経験はおろか、スポーツの経験さえろくになかった。それでも勅使河原は人生で初めて自分の中に生きる意味を見いだした。