2007年の8月のある日のことです。
「髙須くん、バルセロナに行ってみない?」
そう言ったのは、雑誌Numberの編集長でした。当時、日本では海外サッカーが流行っていて、夏になるとビッグクラブが毎年のようにやってきていました。この年は3ヶ月前にチャンピオンズリーグを制したFCバルセロナがやってきたのです。日産スタジアムは56000人の観客が詰めかけ、その注目度の高さが際立った試合でした。そして、そのときの写真を売り込んでいる際に、冒頭の思いも寄らない提案を受けたのでした。
全盛期のロナウジーニョが新横浜のピッチに!
バルサを世界で最も支持されるクラブに押し上げたのはオランダの英雄ヨハン・クライフです。現役のときはオランダの名将リヌス・ミケルス考案のトータルフットボールを実践してみせ、引退してから監督に就任すると今度はそのノウハウをバルサに植え付けたのです。生きる伝説に導かれたブラウ・グラーナ(えんじと青の意でバルサの愛称)は90年代初頭の世界のサッカーシーンを席巻しました。しかし、そこは栄枯盛衰の世界。クライフのドリームチームでさえ世のことわりに抗うことはできませんでした。就任8シーズン、1996年5月に成績不振を理由に解任され、チームもそこから長いトンネルに突入しました。
再び上昇気流を掴んだのは03年にフランク・ライカールトを監督に迎えてからです。就任3年目にして、14年ぶりに欧州チャンピオンに返り咲いた当時のバルサのスタメンには、ロナウジーニョやサミュエル・エトー、カルレス・プジョル、シャビ、リュドビック・ジュリーやデコといった世界各国の名手がズラリと並び、若き日のリオネル・メッシはまだ有望な若手の一人、アンドレス・イニエスタにいたってはベンチを温めることの方が多いくらいのチームになっていました。
そんなバルセロナがこの夏に補強したのがフランスのティエリー・アンリでした。アンリは98年の自国開催のW杯フランス大会で鮮烈なデビューを果たして以来、イングランドの名門アーセナルで活躍を続けてきた名選手です。
「欧州チャンピオンに返り咲いたバルサにアンリが入る!」
この移籍はバルサファンに留まらず、世界中のサッカーファンにとって大きなニュースとして伝えられていました。そして、その話題は日本でも大きく取り上げられ、Numberも特集を組むことになり、駆け出しだった僕に白羽の矢が立つことになったのです。
今、話題のバルセロナを現地で取材する。まだフリーランス2年目でヨーロッパでの経験もほとんどなかった僕にとって、これは大きなチャンスであると共に、リスクを背負う覚悟と新しい世界へ飛び出す少しの勇気が必要な決断でしたが、ほとんど即答で「行かせてください」と伝えました。なぜならば、バルセロナは僕にとって因縁のある街だったからです。
実はこの前年2006年3月に僕はバルセロナに行っていました。このときはジーコジャパンのドイツ遠征を取材するためだったのですが、初ヨーロッパだったこともあり、日本の試合だけではなく、W杯ドイツ大会で対戦予定だったクロアチアはもちろん、それだけでは飽き足らず、行ってみたいと思っていたスタジアムをすべて制覇しようと考えたのでした。その予定がこちら。
2/28 日本対ボスニア@ドルトムント
3/1 クロアチア対アルゼンチン@バーゼル
3/3 ディジョン対グルノーブル@ディジョン
3/4 バルセロナ対デポルディーボ@バルセロナ
3/7 ユヴェントス対ブレーメン@トリノ
3/8 ACミラン対バイエルン@ミラノ
3/11 アヤックス対PSV@アムステルダム
若いってスゴい。もはやヤバいレベル。今はここまでハードなスケジュールを組む元気はありませんが、エネルギー満タンで常にフルスロットルでいられた若き日の自分が自分ではないように感じるほどです。このとき絶対に取材「しなければならなかった」ドルトムントとバーゼルの試合は無事に終えることができましたが、絶対に取材「したい」と思っていたバルセロナとイタリアの両都市での取材は叶いませんでした。明確な理由は定かではありませんが、取材申請の方法が間違っていたのか、単純に新参者だから足切りされたのか。いずれにしても胸を弾ませながらたどり着いた聖地カンプ・ノウから、観客の流れに逆らって帰らなければならなかったときの失望は今でもハッキリと覚えています。
そんな失意から1年半。ついにリベンジのチャンスが巡ってきたのでした。
失意のカンプ・ノウの翌日、モンジュイックの丘でみた夕景が僕を慰めてくれました
2021年3月公開