■出席者
ボクシング・マガジン編集部 本間暁
SPOAL 二宮寿朗
SPOAL 渋谷淳
ボクシング雑誌編集者にこだわった本間暁さん
二宮 さて、ボクシング・マガジンが8月号で休刊になり、編集部員の本間暁さんをお迎えしての対談企画第2回です。そもそも本間さんはマガジンに何年いたんですか?
本間 正式に入ったのは2007年の夏。だから15年くらいです。
二宮 もっといたようなイメージありますけど。その前がサッカーJリーグのサガン鳥栖の広報でしたっけ?
本間 一番最初はワールドボクシング(ボクシング・ビートの前身)なんですよ。
二宮 あ、そうだった!
本間 ワールドボクシングにちゃんと入ったのが2000年。96年くらいから編集部に出入りして仕事をさせてほしいと。とにかくボクシング・マガジンよりワールドボクシングが好きだったんです(笑)。
二宮 ワールド派だったんですね。
ボクシング・マガジン編集部の本間暁さん
本間 高校の卒業文集みたいなのに「ワールドボクシングの記者になりたい」って書いたくらいだから。
渋谷 そいつはすごいな。
本間 もともと浜田剛史さんが大好きで、浜田さんが引退するとき、高校の帰りにたまたま手に取ったのがワールドだったんですよ。そうしたらワールドに浜田さんの引退記事が載っていた。あとからマガジンも読んでみたら載ってなかったんですよ。
二宮 締め切りの関係かな。
本間 いずれにしてもそこからワールド派になった。もう一つ、うちの親父がNumberの愛読者で、前田衷さんのコラムがあるじゃないですか。おやじが「この前田さんという人はいい文章を書くぞ」と言っていて。それがワールドの編集長だった前田さんなんです。
二宮 前田さんのコラムはいまでも続いてます。
渋谷 でも学校を出てすぐにワールドではないんだ。
本間 最初は空きがなくて入れなかった。それでとりあえず編集の勉強をしようと編集プロダクションにバイトで入ったんですよ。まんが日本の歴史みたいなやつ。それで2年くらい編プロで働いたのかな。でもちょうど結婚するときに辞めて、新婚旅行でメキシコに行ってリカルド・ロペスに会ってきたんです。
二宮 奥さんはボクシング好きなの?
本間 まあ感化されちゃったんでしょうね。メキシコもついてきてくれました。
渋谷 ロマンサジムに行ったの?
本間 行った。そうしたらいたのよ、ロペスが。ちょうどロセンド・アルバレスとやって苦戦の末の負傷ドローがあって、アルバレスと再戦をするというその2、3週間前だったと思うんだけど。
渋谷 アルバレス第2戦は98年11月13日、ラスベガス・ヒルトンだ。
本間 それでロマンサに行ったらナチョが窓際で葉巻を吸っていて、つたない英語だかスペイン語だか忘れたけど「ロペスの大ファンで日本から来た」と言ったの。
二宮 ちょうどボクシング・マガジン最終号に殿堂入りトレーナー、ナチョ・ベリスタインの記事が出てます。
本間 出てます。そしたらナチョが「これからフィニート(ロペス)が来るから、お前ら練習を見ていけ」と。で、ロペスが来た。ロペスってちょっと神経質なイメージがあったんだけど全然違って。もうすごい笑顔で、目の前に席を作ってくれて「ここで見ていいから」って。
渋谷 めっちゃいい人だ。
本間 もともとロペスの大ファンだったけど、さらに好きになりました。で、こちらの気持ちも伝わったみたいで、最後にオレら夫婦の名前入れてサインしたポスターをくれました。
SPOAL渋谷淳もかつてはマガジンのレギュラー・ライターだった
渋谷 すごい話だな。で、帰ってきていよいよワールドの編集部員になった?
本間 それからもいろいろあった。1年くらい近所のスーパーでアルバイトをして、正式にワールドに入ったのが2000年5月かな。
二宮 僕がスポニチでボクシング担当になったのが2000年でした。
渋谷 私が内外タイムスでボクシングの仕事をするようになったのが2001年4月だ。みんな同じような時期だったのか。それにしても本間ちゃんは念願叶ったということだね。
スタートはワールドボクシングだった
本間 そうだね。ワールドに正式に入る前には手伝いで晩年の佐瀬稔さんを担当させてもらったりとか。
二宮 大御所ですね。
本間 そうなんだけどファクスで送ってくる原稿が読めない。ものすごく達筆なのと、あのときはもう体調の問題もあったと思うんだけど。前田さんに聞きながらワープロで打ってね。さすが前田さんは読めるんですよ。でも結局、ワールドは2004年の頭くらいまでしかいなかった。長男が病気になったりして。
渋谷 たしか喘息? それで奥さんの実家がある佐賀で暮らしたほうがいいという話になったとか。
本間 あのとき一番最初に淳ちゃんに相談したんだよ。デニーズだったよ。
渋谷 ごめん、そこまで覚えてない(笑)。話を聞いた記憶はあるけど。
本間 そういう家庭の事情もあったし、ちょうど島くん(現ビート編集長)がバイトで入ったところで、彼なら性格的にも真面目だし、テキパキ仕事ができるし、自分が抜けても大丈夫だなと思って。
二宮 そのあと佐賀に行って、サガン鳥栖の広報ですか?
本間 仕事がなくて最初の1年間は工場で働いたりしてました。でも、何かスポーツ関係の仕事がしたいと思って見つけたのがサガン鳥栖。サッカーは全然わからなかったけど。でもサガンも2年はいなかったと思う。
渋谷 それからこっちに戻って復帰したというのがすごいな。
本間 2007年の4月に何のアテもなかったけどこっちに戻ってきた。それで着いた日に島くんに電話して後楽園ホールの前で会って「今日の試合、一緒に入れてもらえない」と頼んで。そのときJBC(日本ボクシングコミッション)の安河内さんがたまたまいて。「戻ってきたの?」、「こういうわけでまたボクシングの仕事をしようと思ってます」みたいな会話もあって。
渋谷 そういえばJBCでちょっと働いてたことあったよね。
本間 そう、そのとき安河内さんに「何か手伝ってもらえることがあるかもしれない」って言ってもらって5月からJBCで3カ月バイトしたんですよ。そのあとマガジンから声をかけてもらったという流れだね。
二宮 紆余曲折ありましたね。いや、そこまでしてボクシング専門誌の編集者にこだわり続けたというのはすごいですよ。
本間 ボクシング専門誌の記者になりたいとずっと思っていたので。
二宮 次回は雑誌の中身の話に入っていきましょう!