「いやあ、大変ですね。思った以上に」
携帯電話の向こう側からため息が漏れた。声の主は、サッカー日本代表専属シェフとして知られる西芳照。普段はいわきFCで選手たちの食事を担当するとともに、「いわきFCパーク」内でレストランを経営している。だが新型コロナウイルスの感染拡大によって、臨時休業に踏み切ったという。
「何とか終息してくれれば、また頑張ってやらなくちゃいけないですけど」
そう言って、最後には前を向こうとするのも彼らしい。
2011年3月11日、東日本大震災。
西は総料理長として勤務していた日本サッカーのナショナルトレーニングセンター「Jヴィレッジ」で被災した。一時的に東京に避難したものの、福島第一原発の事故対応の拠点となった施設に戻り、作業員向けに食事を提供した。震災後、事あるごとに指導者、選手、代表スタッフ、協会の職員たちサッカーファミリーから激励を受けた。そして協会が業務委託していた会社を退職したことで「専属シェフ」を辞めなければならない状況ではあったものの、協会の配慮で続けられることになった。日本サッカー界への恩返し。それが常に、西の心にあり、西のモチベーションになっている。
いわきFCにやってきたのは2018年のロシアワールドカップが終わってから。近い将来のJリーグ入会を目指すクラブのために「自分の知識が少しでも役に立つなら」、そして「福島が元気になるために」という思いもあって、50代半ばを過ぎて新しいチャレンジに踏み切ることにした。
日本代表の選手たちと間近に接することで、マインドを共有するところがあるかもしれない。彼らに負けず劣らず、この人のガッツには頭が下がる思いだ。
ロシアでも日本代表を料理で支え、ベスト16入りを後押しした。
日本代表の食卓はビュッフェ形式で、野菜、肉、魚など多くの食材を並べる。栄養士と打ち合わせ、チームからも「こういう栄養素を入れてくれ」というリクエストに応じていかなければならない。
西のこだわりに、ライブクッキングがある。つまり選手の前で料理をして、目や音で楽しませるのだ。ステーキをジュウジュウと焼けば、食欲を掻き立てることにもなる。
合宿生活に入ると選手の楽しみはどうしても限られてしまう。その一つが朝、昼、夜の食事。気持ちをリラックスさせ、場を盛り上げる意味でもライブクッキングが果たす役割は決して小さくない。
ベースキャンプ地カザンの食事会場でも、ライブクッキングの料理を待つ選手たちの列ができたという。
肉、パスタ、お好み焼きなど多種多様。4年前のブラジルワールドカップでは現地料理のシュハスコ(串に刺した肉を炭火で焼く料理)のようにフィレ肉を焼くと「柔らかくておいしい」と喜ばれた。選手たちはキャンプ地で生活をするため、現地の雰囲気を感じにくい。現地の料理をアレンジして提供するのも、選手に対する愛情ゆえだ。
ロシアでもさまざまな料理でライブクッキングを実施したが、人気があったのは意外なものだったという。
「肉を焼くのを含めてちょっとマンネリ化していたので、何か新しいものないかなってひらめいたのがオムライス。フワフワの卵でケチャップライスを包んでというのは、食べてくれるのかなってちょっと心配したんですけど、結構みなさん食べてくれましたね。大島(僚太)選手が、ソースは要らないですって言うので『えっ、トマトソースが決め手なのに』と返したら笑っていましたけど(笑)」
西が心掛けるのは、安心してリラックスして、なるべく温かい料理を食べてもらうこと、しっかりと栄養を取ってもらうこと、そして試合への活力としてもらうこと。
栄養に対する日本代表メンバーの意識は相当に高い。経験ある選手のみならず、若い選手まで浸透している。
DHA(ドコサヘキサエン酸)、EPA(エイコサペンタエン酸)などの栄養素を多分に含むサバやイワシなどの青魚の料理は、選手の疲労回復に必要な打ってつけの食材。十分な量を出しているつもりなのだが、ロシアでは消費量が半端なかったそうだ。
青魚好きで知られるのが長友佑都だ。しかし若い選手たちがこぞって青魚を食べるため、長友まで回らなそうになったこともあったとか。
「長友さんが『西さん!(青魚が)なくなっている!』って驚いていました。若い選手たちに自分が青魚を食べる理由を語っていらっしゃったので、うれしいところもあったんじゃないですかね」
西メシは料理のみならず、白米のご飯がうまいという評判をよく聞く。ホカホカで食べられるよう、食事の直前に炊き上げることを徹底しているからだ。ロシアにはほかの食材と一緒に日本米も移動のチャーター機で送っている。
しかしロシアではこだわりのふっくら白米よりも人気の高いご飯があった。
それは「試しに」くらいの〝おまけ〟で持参した玄米だった。炊飯器を置いておくと毎回きれいさっぱりなくなっていた。
さりげなく吉田麻也に疑問をぶつけてみたら「ちょっとでも体にいいものを、と考えているからでしょうね」と返されたとか。全員がここまで徹底するようになっているのか、と西も感心するほどだった。
いつもワールドカップではハプニングがつきもの。しかしロシアでは「まったくなかった」という。
「現地の調理スタッフにも助けられました。こんなにスムーズに進んだのって珍しいですよ」
過去の苦労があったから、今の「スムーズ」があると言えるのかもしれない。
ベルギー戦での原口元気選手のゴールにスタンドで喜ぶ西さんたちスタッフの姿を高須カメラマンが見つけてパチリ
2020年5月公開