フィリピン人選手のサーブが飛んでくる。トサーの佐藤翼が右足でレシーブして、もう一度、右足のインサイドを振り上げる。これまで何千何万と上げてきたトスだ。プラスティックで編み込まれたボールがスッと上がる。アタッカーの寺島武志が軽快なフットワークでステップバックしながら、ボールを見上げる。高く上がったボールが頂点に差し掛かり一瞬、時間が止まる。スッと落下し始めると一歩、二歩、三歩、小刻みなステップで落下点に入る。
「いけーーー!」
スタンドの応援席から激が飛ぶ。右足で踏切ると同時に左足を振り上げて跳び上がる。左足を戻すときの反動を使って右足を振り抜くと、相手コートにボールが突き刺さった。普段、感情をあまり表に出さない佐藤が身体を小さく折りたたみ力強く拳を握る。寺島は跪いたまま小さなガッツポーズを作った。二人が立ち上がり抱き合う。派手なパフォーマンスはない。最低限のノルマを果たし、安堵しているように見えた。共に戦ってきた仲間がベンチから駆け出してくる。今度は一気に歓喜の輪が広がった。
セパタクロー日本代表が2018年、夏にインドネシアのパレンバンで開催されたアジア大会で2大会ぶりに団体種目の銅メダルを確定させた。
チームダブルで銅メダルを獲得した日本代表。手前が佐藤。奥が寺島。
セパタクローは東南アジア発祥の足を使ったバレーボールのような競技で、セパはマレー語で「蹴る」、タクローはタイ語で「籐で編んだボール」という意味があり、その2つをかけ合わせた造語だ。3タッチ以内で相手コートにボールを返すのはバレーボールと同じだけれど、一人での連続タッチが認められていること、手と腕以外であれば頭や肩、背中の使用も認められている部分が異なる。
日本でセパタクローの歴史が大きく動いたのは1994年の広島アジア大会だった。当時、日本にセパタクロー専門の選手は存在せず、足でボールを扱うという共通点だけで、サッカー経験者が選手として駆り出されていた。勧誘の殺し文句は「セパタクローなら日の丸を背負えるよ」だったという。時はJリーグ誕生前夜、サッカー日本代表への注目度は高まり、試合前の君が代を直立不動のまま口ずさむ選手の凛々しい姿に憧れを抱く子供が急増した時代の話だ。
僕が初めてセパタクローを取材したのは2004年だった。写真を始めて2年、まだカメラマンとして独立はしておらず、あらゆる競技をそれこそ手当り次第、撮影して回っていたときだ。以前からセパタクローの取材を続けていたライター氏の「可愛い子いるよ」という甘言に唆されて、体育館へいったのが最初だった。当時、僕の目標はワールドカップを取材することだったから、セパタクローはあらゆる競技の中のひとつに過ぎなかった。それでも彼らに興味を持ったのは素朴な疑問があったからだ。
「なんで彼らはセパタクローを続けているのだろう」
プロスポーツを除けば、陸上や競泳でさえもオリンピックでメダルに絡むレベルになければ、社会人で競技を続けるのが難しい日本において、マイナースポーツの置かれている状況は想像に難くない。当時は大学を卒業したら第一線から引退する選手がほとんどで、代表に絡む選手だけがアルバイトなどで生計をたてながら競技に打ち込んでいた。まさに人生を削りながらボールを蹴っていたのだ。
そんな興味本位から始まった取材が、その後の僕のカメラマン人生を大きく変えることになるとは、このときは想像もしていなかった。
2022年9月公開