名手は間違いを犯してもスマートに修正する
2020年10月某日、後楽園ホール。レフェリーの中村勝彦はいつものようにリングに上がり、手首や足首をほぐしながら両選手が入場するのを待っていた。できるだけ先入観を持たず、何が起きても柔軟に対処する。注意を怠らず、なおかつ力むこともなく、選手を無事にリングから下ろすのがレフェリーの仕事だ。
アクシデントが発生したのは5ラウンドだった。両選手のパンチが交錯し、片方の選手が倒れた。中村はすかさず「ダウン!」と宣告し、カウントを8まで数えた。するとここでおもむろにタイムを取り、立ち上がった選手をニュートラルコーナーで待たせた。
ヒッティングで倒れたのか、スリップで倒れたのか、どちらとも取れるようなケースであり、中村はダウンの裁定にいまひとつ自信を持てきれずにいた。ダウンを宣告したとき、会場を覆った微妙な空気と軽いざわめきも感じ取っていた。
タイムを取った中村は3ジャッジに意見と求め、全員から「スリップ」という答えを得る。そこでスーパーバイザー(立会人)にダウンの取り消しを伝え、変更理由をリングアナウンサーに説明した。アナウンスがあって、試合は何事もなかったように再開された。
これがダウンか、ダウンでないかは大きな問題だ。ダウンを1度奪えば採点は10-8が基本。この2ポイント差が最終的に勝敗を分ける可能性があるし、ダウンした選手は予定していた戦術の変更を余儀なくされるかもしれない。もしダウンでないなら、一刻も早い訂正が望ましいのは明らかである。
「もう千何百試合もレフェリーを務めていますが、ダウンを取り消してスリップに訂正するなんてたぶん初めての経験です。そもそも最初の裁定をしっかりしていればこんなことにならなかったわけで、決してほめられた話ではありません」
中村にしてみればちょっとかっこ悪いシーンだったのかもしれない。しかし、間違いや見落としはだれにでもあるものだ。それを素早く見つけ、柔軟に修正した姿に、キャリアに裏打ちされた堅実なレフェリングを感じさせた。
そんな中村も駆け出しのころからこの日のような冷静なレフェリングができたわけではない。失敗もあったし、気負いが裏目に出たこともあった。
「審判員のライセンスをもらうと、大ベテランも新人もまったく同じ権限を与えられるわけです。そこで決定的に違うのはネームバリュー。名前がない新人は“なめられまい”と権限を振り回しがちになる。注意することばかりを意識してストップが多くなるとか、前のめりになってしまうんです。実際に同じレフェリングをしても、私には文句がこなくて、新人には文句がくるということもありますから」
駆け出しのころに経験した衝撃の試合
中村が日本国内のプロボクシングを統括する日本ボクシングコミッションから公式審判員のライセンスを与えられたのは2004年のこと。同年10月に試合の優劣を採点するジャッジでデビューし、初めてレフェリーとしてリングに上がったのは05年1月だった。
まだC級ライセンスだったころ、東日本新人王戦で裁いた試合に衝撃を受けた。ちなみにC級ライセンスとは4回戦の審判を務めることができ、B級が6回戦、A級が8回戦以上となる。
「担当した試合で片方の選手が口から流れるように血を出していた。3ラウンドが終わってドクターに診てもらったらアゴが折れている。よく診るとアゴがずれて奥歯がほとんど真ん中にきている。あり得ない位置なんです。これはダメだとTKOにしたんですけど、この試合はショックが大きかったですね」
ボクシングではアゴの骨が折れたり、眼窩底骨折をしたりと、日常生活では考えられないようなダメージを負うことがある。もちろん試合でそうした事態が起きることを中村は知っていた。ただし、頭で知っていることと、目の前で見せつけられて、何らかの決断を下すことの違いは大きい。
「奥歯が真ん中にきちゃった選手は、それでも『続けたい』って言ったんですよ。駆け出しの審判であっても安全管理が大事だという理屈は十分に理解しています。ただ、選手がどうしてもやりたいと懇願したときに、情にほだされないで正しく判断できるのか。キャリアがないとけっこう迷うと思うんです。私もあのとき、TKOにしていいのかと迷いました」
試合のダメージが原因で日常生活に支障が出るような後遺症が残ることがあるし、最悪の場合は死に至ることもある。ボクシングにおいて安全管理が何よりも大事だと言われる理由だ。
一方で、たとえどんなに小さな試合でも選手がリングに人生をかけているからこそ、「止めないでくれ」という心の叫びもレフェリーは受け止めなければいけない。深刻なけがになる前にストップをかけることは確かに正しい。それでもなお簡単には割り切れないのである。
「引退したある選手から『あのとき止めてくれなかったら失明していました。ありがとうございました』と言われたことがあります。でもね、あくまでその場の判断なんですよ。そういう意味でレフェリーは彼らの運命を握ってるんだと思います。
たとえばタイトルマッチであれば、そこにいたるまでに労力もお金もかかっています。選手もジムも大変な思いをしてタイトルマッチの舞台に上がっている。そう考えると敗色濃厚でも簡単には止められない。安全とお金を天秤にかけてはいけないんですけど、そこのバランスはやっぱり考えますね」
選手の健康と安全を第一に考え、彼らのプライドやそこに至るまでの過程まで頭の片隅に入れ、それでいて情にほだされることなく冷静に試合を裁く。四角いリングはレフェリーにとっても戦場なのだ。
2020年10月公開