JR横浜線の鴨居駅を降りると、すぐに鶴見川に架かる鴨池橋が見えてくる。
河川敷沿いを走る人の姿がやけに目につく。きっとボクサーたちもロードワークで使っているのだろうと想像する。何となくこの町、この風景にはボクシングジムが似合う気がする。それは花形ボクシングジムを訪れる際いつも感じていたこと。ここに来るのは久しぶりだが、駅の周辺の風景が変わってもボクシングのにおいがどことなく香るのは変わらない。
住宅街に入っていくと、3階建てのジムがある。
「おー、久しぶりだね。ほらほら、入んなよ」
73歳の元世界チャンピオン、花形進会長がいつもの優しい顔で出迎えてくれる。
不思議な気持ちになる。プロを擁するボクシングジムは大体どこもピリッと張り詰めた雰囲気があるのだが、ここは親しい友人の家に招かれたような気分になる。花形会長の人柄がアットホームな雰囲気をつくらせている。
コロナ禍が社会不安を呼んでいる今だからこそ、花形進を描きたいと思った。現役時代、世界チャンピオンの座を5度目の挑戦でようやく勝ち取った人。めげずに、あきらめずに持ち前の明るさで拳闘の道を歩んできた。
世界タイトルマッチは1勝7敗。されど花形進は名チャンプであった。世界タイトルマッチではダウンもない、KO負けもない。劣勢に追い込まれたところで心は折れない。あきらめなければ、勝機はある。花形進はどんな状況であっても前に進もうとするボクサーであった。
「昔の話、どこまで覚えてっかなあ」
記憶を呼び戻すように頬を何回か摩ってから、ボクシングを始めるきっかけになった中学生のころから静かに話を始めた。
「勉強はからきしダメだったけど、運動神経は良くてね。相撲も強かったんだよ。でも小さいから、相撲取りは無理。そんなときに確かファイティング原田さんと矢尾板(貞雄)さんのエキシビジョンマッチを見た。ボクシングを好きになっちゃって、強くなってチャンピオンになって有名になりたいって思うようになったんだよ」
中学を卒業して港湾関係の仕事に就くと、自宅と職場の帰り道にあるカワイジムの門を叩くことにした。父親も賛成してくれた。
「親父はよく言っていたね。〝人より一つでいいから上に立つものをつくれ〟って。勉強できなくたって、何かで一番になればいいっていう人だったから」
仕事は大変だった。
「俺は輸出担当だったんだけど、たとえばある会社がおもちゃをロスに送りたいとなると日本郵船とか大阪商船とか船会社に許可のサインをもらいにいったりする役目。書いてあるのがすべて英語だったから、何を書いてんだか分からない(笑)。困ったなあって思ったけど、それでも仕事だから頑張っていろんなことを覚えたよ」
いくら仕事が大変でも、日曜と祭日以外は毎日ジムに通った。ボクシングが自分に合うスポーツだと感じて辛い練習も嫌だとはまったく思わなかった。
熱心に取り組む姿勢と抜群の運動神経に、ジムの河合哲朗会長も期待の目を向けていた。プロになるのは17歳という決まりがあったが、1歳サバを読んで16歳でプロデビューを果たしている。
「まあ、そういうのが許される時代でもあったからね。デビュー戦に勝って、16歳のときは3試合やったかな。会長は現役時代、足を使うボクサーだったからどうしても似てくるよね。でも最初のほうは勝ったり負けたりが続いたね」
18歳から19歳にかけて6試合連続で引き分けを含めて勝てない時期が続いた。「俺、ダメなんかな」と落ち込む時期もあったが、楽観的な性格もあって「やっぱりボクシングが好き」がいつも上回った。
転機になったのは10回戦ボクサーになってからだ。21歳になった1968年は7試合こなして全勝。ライバルとなるのちの世界王者・大場政夫にも判定で勝利を収めている。
勝ち方のコツをつかんだ、と花形は言う。
「足を使うボクシングに加えて、ここがチャンスだと思ったら自分でガンガン手を出して勝負に出ていく。原田さんみたいとまではいかないけど、場数をこなしてきて何となくどうやったら勝てるか体で分かってきた。あと、スタミナがついたよね。1ラウンドから打ち合っても、最後まで体が持つっていう自信があったね。ハートとスタミナ。これがあれば負けないって思うようになった」
日々の練習ではサンドバックを3分間、全力で叩くハードトレーニングを己に課した。1ラウンド終わっただけで、ゼーゼーと息が切れるほど。それを延々と繰り返してハートを鍛え、スタミナをつけた。
翌1969年4月にはスピーディー早瀬を破って日本フライ級タイトルを獲得。するとビッグチャンスの話が舞い込んでくる。6月、WBC世界フライ級王者アラクラン・トーレス(メキシコ)とアメリカ・ロサンゼルスにおいてノンタイトルマッチで戦わないか、というオファーだった。
会長からこの話を聞くと、花形は迷うことなく「やらせてください」と申し出た。港湾の仕事をやってきてチンプンカンプンだった英語も多少は理解できるようになり、アメリカへの憧れもあった。スーツを新調してネクタイをビシッと締めて、ロス行きの飛行機に乗り込んだ。
重圧も何もなく異国の地に乗り込んで、トーレスに3-0判定で勝利する。当時の新聞には「トーレス破る大金星」「左右連打で圧倒」と大きく報じられている。
ハワイに立ち寄ってからの凱旋帰国。新聞には花形らしいコメントもある。
『日本でやるより、外国のほうが気が楽みたいに思いました』
この勝利によってトーレスへの挑戦が内定。世間からも有力な世界チャンピオン候補と注目されるようになった。練習に集中するために仕事もやめることにした。
スピーディー早瀬との再戦にも勝利。11月に敵地メキシコ・グアダラハラにおいて花形の世界初挑戦が決まった。
2020年12月公開