2013年6月4日。埼玉スタジアム。オーストラリアが1点リードした状態で迎えた後半45分。本田圭佑がペナルティスポットにボールをセット。同点に追いつけばブラジルへの切符を獲得。敗れれば1週間後、中立地で迎える最終戦のイラク戦に持ち越しという状況。スタジアム中の視線が日本のエースに注がれていました。この瞬間を僕はバックスタンド側のサイドラインから見守っていました。
この大一番を前に取材許可の連絡がありました。しかし、僕に用意されたフォトポジションはメインスタンド上段にある記者席だったのです。その通知を受けたときのショックは今でも忘れられません。
すでに4度ワールドカップに出場していた日本ですが、出場を決めたのはすべてアウェイでした。5大会目にして初めてホームで迎える大一番。取材申請も殺到したことでしょう。本大会の決勝でもないのに100人以上もフォトグラファーが集まるのは、世界でも日本だけです。スペースの都合で選別しなければならないことも理解できました。
でも、なぜ僕が弾かれなければならないのか。
取材させてくれて当たり前と驕るつもりはありませんが、2010年のワールドカップ南アフリカ大会をフルカバーして、ザッケローニ監督が就任してからもホーム・アウェイ問わずほとんどの試合を現地で取材してきた僕にはそれなりの自負がありました。取材者が限られるアウェイでは、同業者や協会関係者とも力を合わせることが多くなるので、取材陣を含めての日本代表だと感じていたので、ショックが大きかったのだと思います。
試合当日、いつもならポジションを確保するために早い時間にスタジアムに向かいますが、この日の僕には選ぶべきポジションがないので、いつもよりだいぶゆっくりとプレス受付に行きました。そして、手渡されたのはピッチサイドフォトグラファー用のビブスでした。
「え? 記者席じゃないんですか??」
どのタイミングで決まったのかわかりませんが、僕にもピッチサイドに入る許可が降りていたようです。しかし、すでにポジションは埋まっていて、僕に残されていたのはもっとも写真が撮りにくいサイドラインだけだったのです。
本田圭佑はゴールを決めたあと、報道陣に向かってアピールすることが多い選手でした。本人がそこまで考えていたかは分かりませんが、その位置もバラバラだったのでフォトグラファー的には有り難い存在でした。
2012年6月3日、最終予選の初戦となったオマーン戦でゴールを決めた本田圭佑。
しかし、この日はゴールが決まった瞬間に感情を吐き出すように一度だけ吠えましたが、そのあとはアピールをすることもなく、振り抜いた左足の惰性に任せるように力なくゴール横に向かい、崩れるように膝をついたところで仲間に押し倒されながら祝福されました。彼が背負っていた重圧の大きさと開放された安堵感を知ることができた瞬間です。
ゴール正面に決まった本田のPKシーン。
2017年8月31日。4年前と同じく埼玉スタジアム。このとき僕はこれまでの経験をフル活用して、また幸運にも恵まれて狙っていたフォトポジションを獲得することができました。
4年前と同じく対戦相手はオーストラリアでした。勝てばワールドカップが決まる試合。しかし、予選での戦績は5分2敗とそれまで勝ち星なし。そんな宿敵との一戦はリオ五輪世代が躍動しました。前半41分に浅野拓磨がゴールを決め、リードを保ったまま迎えた後半37分。そのときがやってきました。
ワールドカップ出場の歓喜の瞬間に僕が挑むようになって4試合目。たった4試合、されど12年。この写真はその場にさえいれば、シャッターを押すだけでも撮れる簡単な写真です。それでもこの場所に辿り着くのに12年かかったことを考えると忘れられない一枚となりました。
そして、2022年3月24日。つい先日、雨に濡れるシドニーのスタジアムオーストラリア。7大会連続となるワールドカップをかけた試合はスコアレスドローに終わるかと思われた終了間際、三笘薫のゴールで決しました。
このとき僕は渋谷にある馴染みのブラジリアンバーにいました。
現地での取材も考えました。平時であれば間違いなく行っていたと思いますが、今回は断念しました。
理由はいくつかあります。コロナ禍の影響もあり、シドニーへのフライトが極端に少なく高騰していたこと。4月にならないと3回目のワクチン摂取が受けられない僕には、帰国後の自主隔離が発生するため、シドニーへいった場合、ホームのベトナム戦の撮影を諦めなければならないこと。
出場条件はアウェイでの勝利だったのでので、これまでの経験から引き分ける可能性がかなり高いと予想していたので、無理をしてまで現地に赴いてスコアレスドローになった場合のショックを考えると、、、。
安定は衰退の始まり。
ハイリスク・ハイリターン。
選択を迫られたときはより困難な道を選ぶ。
20年近くフリーランスとして生きてきた僕が戦っていたのは弱い自分自身だったのかも知れません。幾度となく選択を迫られ、その度に楽な方へ傾きかける自分を奮い立たせながら現場に向かいました。そうして臨んだ現場で思い通りにならないことも多くありましたが、それでも最高の結果を手にすることもありました。だからこそ、コロナ禍やさまざまな状況を言い訳にして、現場に立つことを諦めた自分の決断に後悔しています。
これまでワールドカップ予選を振り返ると改めて多くのことを教えられていたことに気が付きました。今回の予選で教えられたことは「やらない後悔よりやる後悔」です。現時点で7ヶ月後に迫ったカタール大会の取材パスを手に入れることができるかはわかりません。しかし、どんな結果であっても、この雪辱を果たそうと心に決めています。
終わり
2022年4月公開