いきなりピンチ、日本タイトル獲得に暗雲漂う
2022年2月5日、後楽園ホール。この日のメインイベント、日本バンタム級王座決定戦のゴングがついに鳴った。赤コーナーはランキング1位の澤田京介、青コーナーが2位の大嶋剣心。戦前の予想は澤田やや有利、という見方が多かった。
しかし、澤田のスタートは決して満足のいくものではなかった。
「様子見をしながら感覚を取り戻したい。そう考えていたんですけど、1ラウンド目は全然つかめなかった。大嶋選手は強気に攻めてきて、あっさり取られてしまいました。初回はいつも必ず取るつもりなんですけど…」
日本チャンピオンベルト
第1ラウンドが終わり、コーナーに戻ってきた澤田に、山田は「取られたね」と言葉をかけた。
「コンビを組んでから澤田が最初のラウンドを取られたのって初めてなんですよ。澤田の独特なジャブと変なステップにみんな戸惑うんです。そういうこともあって1ラウンドは必ず取ってくる。それがあの試合ではあっさり取られた。うわっ、やっぱりダメなのかなと思いました」
澤田はこの2年間、サウスポーとしかスパーリングをしてこなかった。対戦相手がオーソドックスの大嶋に代わり、切り替えて対策をしてきたものの、感覚はなかなか戻らなかった。山田の不安は的中した。
大嶋は簡単に勝利を与えてくれるほどヤワな相手ではなかった。アマチュア出身のエリートがひしめく帝拳ジムにあって、まったく無名の存在からタイトルマッチまで這い上がってきた。芯が強いのだ。そんな大嶋の気迫に澤田は飲み込まれかけていた。
2ラウンドが始まって早々、大嶋のパンチを食らって足元がグラついた。大嶋はもちろん一気に前に出た。澤田は絶体絶命のピンチだ。ところが「効かされて逆に吹っ切れた」。ここで守りに入らなかったことが幸いする。懸命にパンチを繰り出して大嶋と果敢に打ち合うと、今度は澤田のパンチが大嶋の顔面をとらえる。さらに右ストレート、左フックと立て続けにパンチを叩き込むみ、大嶋をロープ際に突き落とした。
大嶋に左を打ち込む澤田
「あれっ、もしかしたら勝てるかもしれない」。
心の中でそう思ったのは山田だ。2ラウンドが終わったインターバルで、「まだ距離が合ってないからガンガンいかなくていい。来たところに合わせろ!」と指示を出した。そして3ラウンド、澤田は指示通りに右を合わせにいった。大嶋の足が揺れた。澤田が本能的に襲いかかる。ここでアクシデントが起きた。両者の頭と頭がぶつかり、澤田が右側頭部をカットしてしまったのだ。
「またか…」。
澤田の脳裏に悪夢がよみがえる。昨年7月、澤田は定常育郎と王座決定戦を争い、1ラウンドにダウンを奪いながら2ラウンドにバッティングで額をカットし、試合はそのまま負傷ドローに終わっていた。澤田の心に焦りが生まれる。ドクターチェック後、試合が再開されると大嶋の白い体がたちまち返り血で赤く染まった。
3ラウンドが終わり、カットした箇所の止血をしようとした山田は愕然とした。とても止血できるようなレベルではないのだ。これまで何度となく止血作業をしてきた山田にとっても経験したことのない傷口だった。
血がいくつも飛んできた山田のセコンドシャツ
「もう静脈がいっちゃってて、どうにもならない。声を掛けて澤田が『はい、はい』と言うたびに「ピュッ、ピュッ」と血が吹き出るくらいです。ボスミン(カットするとセコンドが必ず使う)じゃ効かないので、ワセリンを使って髪の毛で壁をつくって、その壁で蓋をするような感じにしかできませんでした。とにかくあと3分持ってほしい。それだけでしたね」
絶対絶命のピンチに求められるのは冷静なセコンドワークだ。日本タイトルマッチは10ラウンド。4ラウンドの途中で試合が終わると負傷引き分けとなる。山田は頭の中で素早く採点を計算した。1ラウンドは取られて9-10、2ラウンドはダウンを奪っているから10-8、3ラウンドはおそらく取れているから10-9。となれば澤田は2ポイントリードしているはずだ。ならば次のラウンドを失っても1ポイントリード。そこで試合が終わったとしてもポイントで勝てる。それが山田の計算だった。
薄氷の上を必死の思いで歩く、そして栄冠は待っていた
4ラウンドが始まる前、山田は澤田に「これ以上ぶつかって血が吹き出たら試合が終わる。いかなくていい。無理するな、大事にいけ」と指示を出す。澤田はこのラウンドを何とかしのぎ、無事にゴングを聞いた。5ラウンドに入ってすぐ、レフェリーがドクターチェックを要請し、ここで試合終了。タイムは5ラウンド27秒だった。
山田の計算通りにコトは運んだ。しかし、スコアが読み上げられるまで勝敗は分からなかった。
リングアナウンサーがジャッジペーパーを読み上げる。最初のジャッジは山田の読み通り48-47で澤田、しかし2人目のジャッジは48-47で大嶋。澤田と山田の表情を凍り付く。祈るような気持ちで最後に聞いたスコアは「48-46で澤田!」。その瞬間、澤田は顔をくしゃくしゃにして喜びを爆発させ、真っ先に山田の胸に飛び込んだ。
試合からおよそ1ヶ月後、澤田は妻、上から6歳、4歳、3歳の子どもと一緒に故郷の北海道に里帰りした。北海道に帰るのはチャンピオンになってから。そう心に決めていたら、帰郷はおよそ3年ぶりとなった。澤田は地元の石狩市役所、母校の札幌工高を訪れ、温かい歓迎を受けた。
長かった2年あまりは最終的に報われた。そして苦労してタイトルを取っても、喜びは束の間というのがチャンピオンの宿命だ。澤田は虎視眈々と己の首を狙う挑戦者を迎え、防衛戦に臨まなければならない。
「まずは防衛を続けて、その先の世界も見てみたいと思います」
第74代バンタム級王者、澤田京介。そのボクシング人生は新たなステージを迎えようとしている。
おわり
2022年3月公開