2002年シーズンを前に横浜F・マリノスへの完全移籍を選択する。
ブラジル人監督のセバスティアン・ラザロニから高い評価を受けたことも、次のチャレンジへ踏み出した理由であった。
「2001年に対戦したときの自分のプレーを見て〝あの選手が欲しい〟と言ってくれたそうなんです。ちゃんと見てもらったうえでの判断なら、磐田では同じくブラジル人のフェリペ監督に使ってもらったこともあるので環境を変えてみるのもいいかな、と。ジュビロは居心地が良すぎました。ただ、25歳になったし、そろそろ違う環境に移ったほうがいいという感覚がどこかにあった」
清水がクラブに移籍の意思を伝えた後に、1つ年上でずっと世話になってきた奥大介のF・マリノス移籍も決まった。当時のF・マリノスはジュビロに負けず劣らずのタレント集団で、個性派ぞろいとしても知られた。新しい環境に慣れていくことを考えると、奥の存在は心強かった。実際、移籍してからも奥には随分と助けられたという。
「雰囲気としてはちょっと両極端なところもありましたね。ジュビロは全員そろってやっていくぞっていう感じで、(F・マリノスは)どちらかと言うと個が立っていて、試合になるとまとまる感じで。でも大ちゃんが入って〝全員で〟というところも出てきた。段々と変わっていったようには思います」
F・マリノス時代の清水。スピードもタフネスも持ち合わせていた 撮影・高須力
移籍初年度はウィルと2トップを組み、ファーストステージ2位に貢献。ただセカンドステージに入るとエースの中村俊輔がセリエAに移籍したことが響いてチームは結果を残せず、ラザロニは契約解除に。それでも清水は奮闘を続け、過去最多となるリーグ戦26試合に出場した。
ここで大きなニュースが舞い込む。フランスワールドカップで日本代表を率いた岡田武史監督の就任である。だが清水には少々複雑だった。コンサドーレ札幌時代、あまり使ってもらえなかったこともあって契約更新になかなか踏み切れないでいた。サンフレッチェ広島のエース久保竜彦や、ブラジル人フォワードのマルキーニョスも加わった。だがここで勝負しなければならないという気持ちのほうが大きくなった。
前年に比べて先発の機会は減ったものの前線、2列目と与えられたポジションと時間で精いっぱいチームに貢献する。攻守にエネルギッシュで、かつチームの約束事に100%コミットする清水のスタイルに、岡田は信頼を置くようになっていた。
2ゴールを挙げた4月12日のアウェー、東京ヴェルディ戦。試合後の会見で岡田は清水について"日本代表に選ばれてもおかしくないくらいのポテンシャルはある〟と表現している。
岡田F・マリノスは2003、04年シーズンの2連覇を達成する。清水は与えられた役割に全力を注いだ。
その極みと言えるのが、2004年のチャンピオンシップであった。セカンドステージを制した浦和レッズはエメルソン、田中達也、長谷部誠、田中マルクス闘莉王らを軸に勢いがあった一方でF・マリノスは久保、アン・ジョンファンの2トップをケガで欠くという緊急事態。坂田大輔とともに2トップを任されたのが清水だ。前線からの守備を厭わず、カウンターに転じればスピードに乗ってスペースに飛び出していく。対レッズのサッカーをやり通した。
「周りはタツとジョンファンなしでどうやって点を獲るんだって見ていたと思う。でもサカティと俺は守備で絶対にサボらない2人だったし、かなり気合いも入っていた。特に一戦目のホームは、スタジアムが凄い雰囲気だったから、やりやすかった思い出がありますよ。リュウ(河合竜二)がゴールを決めてくれたのもうれしかった」
第1戦は1-0、第2戦は0-1というヒリヒリした戦い。PK戦を制して、清水にとっては1997年のジュビロ時代と合わせて3度目のリーグチャンピオンに輝いた。
F・マリノスには9シーズン在籍。リーグ2連覇にも貢献した 撮影・高須力
ジローには揺るぎないポリシーがある。
「練習でやれていないことを試合で出せるわけがない。練習で100%やれていないのに、試合で100%出せるわけがない。そういうスタンスです。練習はあれだけど、試合ではやりますよっていうチームメイトもいましたけど、それは俺からしたらなんか違うなっていう感覚でした」
練習から100%は常だ。プライベートではお酒好きの一面もあった彼は飲んだ翌日こそ、120%やるようにした。それはジュビロ時代に先輩の服部年宏から「飲んだ次の日は一番走んなきゃいけないだろ」と教わったことでもあった。清水とプライベートでも仲が良かった金子勇樹はこう語ったことがある。
「あの人が練習で手を抜いているのは一度も見たことがない。10m、20mのスプリントから長距離まで、走るのは一番だったんじゃないですか。でも走るだけじゃなくて、基本的な技術もいいお手本でした。スピードに乗った状態でトラップするとき、どこにボールを置くかとか若い選手は勉強になったはずですよ」
清水を慕う選手は多かった。そして清水の姿勢をリスペクトする選手も多かった。
年俸交渉もクラブが最初に出した金額に抗ったことは一度もない。
「もし交渉して最初の提示が多少上がったとしても、評価自体は変わらないわけじゃないですか。お金は後からついてくるものだと思っているし、お金はああだこうだ、と自分は言いたくないタイプなので」
F・マリノスでは9年にわたって在籍することになる。ユーティリティープレーヤーはボランチでも新境地を開いたが、世代交代を決断したクラブから2010年シーズン限りで契約非更新を告げられてしまう。松田直樹、河合、坂田、山瀬功治ら〝大量解雇〟のなかに清水の名前も入っていた。
彼らしいエピソードがある。
F・マリノスで最後の試合となった2010年12月4日、大宮アルディージャ戦。両親を招待した清水は先発でプレーして、いつものようにチームのために全力で戦った。試合後、契約非更新となったメンバーが日産スタジアムに集まったサポーターに挨拶を述べるなか、清水の姿はなかった。いつものように帰り支度を済ませて、自宅に戻っていたのだ。
すると広報から電話が掛かってきたという。
「〝今どこなの?〟と聞かれて、〝もう家です〟と。みんなが挨拶しているのは聞きましたけど、さすがに戻れないでしょ、と」
ピッチのなかで自分というものは表現してきたつもり。静かに去るのも、ジロー流だった。
2011年、アビスパ福岡で1シーズンを過ごしたジローは35歳でスパイクを脱いだ。
2021年11月公開